『七日間の初恋』【3】

 

【五日目】

 

 

 もうすでに日課のように、ブラは母のラボに来ていた。

 もちろん箱が一番の目当てだが、それが終わったら母の元に行こうと思っていた。

 箱の目の前までたどり着く。

 触れようと手を伸ばした時、後ろから扉を開ける音が聞こえた。

 慌てて振り向くと、そこに意外な人物がいた。

「おや、ブラちゃん。今日は」

「あ・・クリリンさん。18号さんも」

 昨日のマーロンの両親である、クリリンと18号が部屋に入ってきた。

 お辞儀をするブラに向かって、腰に手を当て眉間にシワを寄せながら、18号は訊ねる。

「あんたのママはどこにいるんだい?」

「ママ? さっき部屋にいたけど」

「部屋にはいなかったよ。どこほっつき歩いてるんだか。

 こんな広い家探すなんて冗談じゃない」

「まあまあ、気を探ればいいだろ。

 あ、ブラちゃん。はいこれお土産。マーロンから」

 軽く妻を宥めながら、クリリンは包みをブラの前に差し出す。

「お姉ちゃんから!?

ありがとー。開けていいですか?」

「いいよ」

 包みをテーブルに置いていそいそと解く。一つの箱が姿を現し、ブラは両手でフタを持ち上げた。

「うっわあ!! きれいきれい!! 可愛いお花ー!

 これ全部お菓子だ! すごいすごいすごいっ」

 それは色とりどりの砂糖菓子だった。一つ一つが違った形の花という手の込んだもので、食べるのがもったいないくらい見事だった。

「この前はごめんねってさ。今度は泊まりに行くからその時は宜しくね」

「はいっ!!

 あ、ママを呼んでくるから、待ってて下さい」

 ブラはさっそく母を呼びに部屋を出て行こうとした。

 扉を開き、閉じて、母の元に向かう。部屋にいなくとも、次に行きそうな場所は大体検討がついた。

 いくつかの部屋を探し、ようやくブラは母を見つけることが出来た。

「ママ、クリリンさんと18号さんが来てるわよ」

「もう? 早いわね」

「お土産もらっちゃった」

「あら、ちゃんとお礼は言った?」

「もちろん」

「で? そのお土産は?」

「あ」

 あのテーブルに置きっぱなしだったことに、ブラはようやく気がつき、慌ててラボに引き返した。

後ろから「すぐ行くって言っててー」という母の声が聞こえる。

駆け足で辿りつき、部屋の扉を開けようとして、ほんの僅かに開いていることに気づいた。

あれ? 私、ちゃんと締めなかったっけ?

そう思っていた時、部屋の中から二人の話し声が聞こえてきた。

開いた隙間から、18号の姿が見えた。

その手の中に、あの箱が握られている。

そして、語りかけていた。

16号と。

 

『16号』

 

 心臓の音が、まるで耳元近くで鳴ったようにドクリと波打つ。

 

 どこに? 誰が?

 何が?

 

 視界の先に、18号のほっそりとした指が、それをいとおしむように抱いている。

 その指先に視線を送りながら、ブラは一昨日のことも思い出していた。

 一昨日、ここに来た時、17号が立っていた場所。

 彼が立っていたその先にあったのは。

 その視線の先にあったのは。

 

それが・・・16号。

 

 口元だけの笑みを浮かべながら、ブラは『それ』を凝視した。

 それは、鈍色の輝きを放つだけの、ただそれだけの存在だった。

 

 

 時はいつの間にか、夜に移り変わっていた。

 どうやら泣き疲れて眠ってしまっていたらしい。

 自分はまた、あの世界に立っていた。

 その世界でも、夜が訪れていた。

 風の心地よさは変わらず、月光の下の風景は、それはそれで夢のように美しかった。

 空の藍色よりもなお濃い、草原の大地を歩いていると、あの大木を見つけた。

 彼はそこにはいなかった。

「16号」

 そこにはいない存在の名を、ブラは声に出した。

「16号。どこ?」

 何度も呼んだ。

 だが、何の前触れも無い。

「どうしてアレが貴方なの・・・。 

 あれが貴方の本当の姿・・・?」

 溜まった涙が、俯いたと同時に零れ落ちた。

「何で・・・どうして」

『ブラ』

 突然の16号の声に、ブラは慌てて顔を上げる。

 だが彼の姿どころか、あの樹木さえも見当たらなかった。

「16号!!」

『すまない』

 声はどこから聞こえているのは判断できない。自分の上下左右に集中しても、決して捉えることが出来なかった。

 仕方なく、ブラは上空に向かって呼びかけた。

「どこなの!? どこに行けば貴方に会えるの!?」

『悲しんだだろう』

 ブラは言葉を失った。

 知られている。自分が真実を知って悲しんだことを。

 現実の世界では彼がもう、ただの部品でしかなかったことが悲しかった。

 

――全ての物事が、決してお前に優しいとは限らない。

 

 あの言葉は、自分が悲しむだろうと見越して言った言葉だったのだ。

「悲しいよ・・・」

 拳を握り締めて、自分を叱咤する。

 現実を悲しむことは、彼を傷つけているということを、自分は失念していた。

「ごめんなさい・・・」

『謝るのは俺のほうだ』

「どうして?」

『お前を泣かせてしまった』

「貴方は悪くない! 私が勝手に泣いてるだけだもの。

 でも、これだけは教えて。貴方のその姿は本当よね! 私の夢の中だけの姿じゃないよね」

『ああ。これは俺の身体として作られた姿だ。

 俺の中にある記憶から再現して作ったものだ』

「再現・・・? 作った・・・?

 じゃあ、この世界も貴方が作ったの?」

「そうだ。俺が触れた、俺の記憶の全てを再現した」

「・・もう一つ教えて。

 貴方はなんなの?」

『俺は・・』

 言いよどむ声が、重い空気としてブラを包む。

 それでもやがて、言葉は続けられた。

『俺は本来、有り得ない存在だった』

 16号は語った。

 包み隠さず話した。

 自分が作られた理由を。そして破壊された結果を。

 それはブラの年齢からは、到底受け止められる内容ではなかっただろう。

 だが16号は語り続ける。

 ブラは、一度も目を逸らさなかった。

 どんな光よりも強い輝きを瞳に焼き付けたまま、16号の声を一つ残さず聞き続けた。

 そして、全てが終わった。

『ありがとう』

「・・・私の方こそ、ありがとう。

 ちゃんと話してくれて、嬉しかった」

 だから、姿を見せてと、ブラは両手を掲げた。

「貴方の姿を見せて。もう一度、触らせて」

 世界が、またしても凍る。

 耳に痛いほどの沈黙が、どれほど続いただろうか。

「もう・・・駄目なの?」

 やがて、がくりとブラの両手が落ちた。

 笑顔を作りたかったが、顔に力が入らなかった。

「もう、これで終わり?」

 泣きたくなかったが、涙が嫌になるほど流れた。

「貴方を好きになっちゃ、いけなかったの?」

『違う』

 今まで聞いたどの声よりも、その声は悲しかった。

『それは、俺の方だ』

 瞬間、世界が暗転する。

 突然の完全な闇に、平衡感覚を失ったブラは、思わずその場に膝をついた。

「16号!?」

『すまない』

 震えるような悲しい声で、16号はそれだけを何度も言い続けた。

『全て、俺のせいなんだ。

 すまない、すまない。すまないすまないすまないすまないすまない・・・』

 

 

【六日目】

 

 

「この頃変よ。あなた。

 一体どうしたの?」

 母のラボで、一日中ぼんやりとしていたら、後ろから声を掛けられた。

「・・ママ」

「全然元気ないじゃない。

 パパとお兄ちゃん、ものすごーく心配してるわよ。言わないけど」

「・・・・・・・・・・。

 ねえ。ママ。あの箱の中のアレ、なあに?」

「ん? ああ、これ」

 自分が指差した『それ』を、母は大事に両手で抱えた。

「これはねえ。ママの友達」

「友達?」

「そう。ママの大切な、大好きな友達よ。

 ほんのちょっとしか一緒にいられなかったけど、言葉を交わしただけで、充分彼の魅力が判ったわ」

「どんな人?」

「優しい人だった」

 懐かしむように、そしてはっきりと、母は言った。

「本当に優しい人だった。

 あんな優しい人、もう二度と現れないわよ。

 誰だって大好きになれるわ。きっと」

 貴方もね、という母の言葉に、ブラはこくんと頷いた。

 それがどんな意味かも知らず、母は更に語り続ける。

「もうこれだけしか残ってないけど、

 これが残ってくれたんだから、彼は完全に消えた訳じゃない。まだここにいるのよ」

「・・・それは、その人の、どこの部品?」

「ここよ」

 自分の頭を指差す。「彼を形成する全てが、ここにつまれているの」

 メモリ。彼の記憶の全て。

「こうやって語りかければ、ちゃんと聞いてくれてるの。私には判るのよ」

 ああ、だからあの人たちも、そうやって語りかけていたんだ。

 私だけ、何も知らなかったんだ。

「どうして」

「ん?」

「どうして、今まで教えてくれなかったの?」

「それは・・・。

 色々とあるから、貴女がもうちょっと大きくなってから」

「16号はちゃんと教えてくれたわ!!」

 立ち上がり、ブラは飛び出した。

 残されたブルマは、箱を持ったまま、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 

 私、16号って名前。言ったっけ?

 それに、教えてくれたって・・・・・。

 

 問いただそうにも、すでに部屋には鍵をかけられていた。

 

 

 夢は唐突にその世界を見せる。

 そして、唐突に、16号は姿を現した。

「私・・今日、あの箱に触ってないわ」

「俺が呼んだんだ。

 今までも、そうだった」

 ブラは近づいた。16号だけを見つめながら、ゆっくりとゆっくりと。

 手を握りしめる。

 だが、

「何も、感じないだろう」

 温かさも、冷たさも、その手は発していなかった。

 最初に触れた時から、ずっと。

「それが、無から作られたという意味だ」

 有り得ない存在。

 彼は、自分をそう呼んだ。

 ブラは16号の掌を、自分の頬にあてがった。

「でも、好きよ。

 あの動物たちも一緒。みんな貴方に触れるのが好き。

 だから、触れたいの」

 掌から離れ、自分の身体を16号に押し当てる。

「だから、このままでいさせて。

 これで終わりにしないで」

 今日この場所に来てから、まず初めに感じた感覚があった。

 世界が薄くなっている。

 あれほど鮮明に感じた世界の気配が、今は霞がかかったようにおぼろげに感じた。

 終わりが近づいていると、ブラは素直に認めた。

 認めはしたが、従う気はなかった。

「ブラ・・・」

 そっと、自分の髪が撫でられる。

「沢山、悲しませてしまったな」

「悲しいけど、それは、貴方に会えて嬉しかったから」

「俺もだ」

 身体が、更に密接した。

 16号に抱きしめられたブラは、両手を彼の背中に回し、抱きしめ返す。

「お前と話が出来て、嬉しかった。

 俺は・・・俺は・・・。

 お前に、申し訳ないことをした」

「・・何・・が?」

「あの二人が、互いに大切な存在を見つけて、俺は本当に嬉しかった。

 幸せな顔で俺に語りかけてくれるあの二人を見て、心から喜んだ。

 それと同時に、俺は、間違いを犯した。

 その心がやがて、羨望へと変わってしまったんだ」

 自分を抱きとめる16号の手に、ほんのわずかだが力がこもった。

「俺もあの二人のように、心から愛したいという思いに囚われた。

 人を、愛したくなったんだ。

 そして、お前を引き込んでしまった」

 自分が作り上げた架空世界に、突如現れたその人間を見て、16号は愕然とした。

 それは決して起こしてはいけないことだった。

 下手をすれば、彼女の精神は完全にこの世界に閉じ込められるかもしれない。

 それでも、自分を愛してくれるこの娘の存在を、手放したくなかった。

「愛してる」

 静かにブラを離し、

「すまない・・・」

 両手で顔を抑え、16号はその場にしゃがみ込んだ。

その背を、ブラはそっと撫でた。

 こんな大きな身体なのに、ブラにはとても小さく見えた。

 震える背中に頬を当て、優しく撫で続ける。

 微笑みながら、ブラは言った。

「愛してくれてありがとう。本当に嬉しい。

 こんなに人を好きになれたのも、貴方のおかげよ。

 だから・・・謝らないで、お願い」

「だが、俺がお前を愛してどうする。俺はお前に何もしてやれない。

 ただ、ただ、お前を悲しませるだけだ!!」

 血を吐くような思いで、16号は己のしでかした過ちを呪った。

 不相応な願いをしてしまったばかりに、彼女の心にどれほど無数の傷をつけてしまったのだろうか。

 いつの間にか、ブラは16号の前に来ていた。

「悲しまない」

 顔を抑える両手を、ブラはそっと外す。

「悲しむわけ無いでしょ。こんな素敵な経験が出来たのに。

 それとも何? 貴方にとって私との思い出は悲しいことしかないの?」

「そ・・そんなことは・・ない」

「じゃあ笑って。ね?

 私、あなたの笑顔が一番好きよ」

 にっこりと微笑むブラに釣られるように、16号も微笑んだ。

 その笑顔に、ブラはそっと口付けた。

「私のファーストキス。愛してくれたお礼」

 微笑みながらも、ブラは己の心が静かになっていくのを感じていた。

 自分はすでに確信している。

 それと同時に、世界の感覚が、また薄まっていった。

 彼とはもうこれきりだと、全て理解した

 その決意を感じたのか、16号ははっきりと告げた。

「ありがとう」

 ブラの笑顔に16号が触れる。

「さようなら」

 世界が消える。

「お前に会えて、本当に良かった」

 彼が消える。

 静かに、ブラは泣いた。

 微笑みながら涙だけを流し続けていた。




←【2】へ  【4】へ→