『境』9

 

 その部屋には日が差さなかった。

 主に書物を保管する場所として、そういう部屋を選んだのだが、いつの間にかそこはセネリオの私室になっていた。

 昼なお暗いその部屋に、更に暗い影が現れる。

 立体を持った影が、セネリオの前に音も無く近づき、立ち止まった。

 じゅうと爆ぜる蝋の音と共に、影に色がつき、片腕がセネリオに伸びる。

 腕は、羊皮紙の束を差し出した。

 

「資料だ」

 

 セネリオは返事を返さず、その洋紙を受け取り、ざっと目を通す。

 資料の中には、今回参加した兵士の戦歴が書かれていた。

 

「ご苦労様です」

 

 セネリオの手に、いつの間に出したのか、重みのある茶色の皮袋が握られている。

 袋を受け取り、フォルカは黙って立ち去ろうとした瞬間、その背に言葉が掛けられた。

 

「一つ、お聞きしたいことが」

 フォルカは黙ってセネリオの質問を待った。

 

「ネフェニーについてですが」

「――その資料にある通りだ」

「その時の貴方の行った判断をお聞きしたい」

 セネリオの質問の意図を、フォルカは明確に悟る。

 

「仕事外だが、俺も立場上こちら側の味方だからな。

 救出する機会をうかがっていたが、あの弓兵が現れたので、それも無用と判断した」

「次回からはもっと早急に願います。

 例え誰であろうと、死傷者が出ればアイクの辛労が増えますので」

 

 セネリオの言葉に、フォルカは一つ頷いた。

 どちらもなんの感慨も無く、淡々と。

 

 

 カツンカツン、と石廊が響く。

 奏でているのは、黒の魔道士。

 丁度角を曲がろうとしたその時、セネリオの目に、栗色の髪の少女が入ってきた。

 

「セネリオ!」

 

 少女、ミストは嬉しそうに駆け寄り、更に嬉しそうに話しかけた。

「あのね、あのね。シノンが目を覚ましたんだよ!」

「・・そうですか」

 特に表情を変えず、それだけ言ってセネリオはミストの脇を通り過ぎた。

 

 反応の薄さは承知していたのか、ミストも特に気にせず、そのまま歩き出す。

 故にミストは気付かなかったか。

 セネリオの瞳に、不敵な輝きが満ちたことを。

 

 

 

 ネフェニーの言葉に、シノンは断固として歯向かった。

 

「いらねぇ」

 予想はしていたが、こうまではっきり言われるとは。

 いつにも増してシノンを不機嫌にさせたのは、ネフェニーの一言であった。

 助けてもらったお礼がしたい。ただそれだけ。

 そのたった一言に、シノンは顔をしかめて断り続けた。

 

 大体戦場の借りなど戦場で返すのが道理だろう。

 それにそもそも、シノンがネフェニーと離れなければ、ネフェニーはあれほどのケガを負うこともなかったのだ。

 いわば彼女を助けたのは、それに対する償いという意味にも取れる。

 他の誰かに言われれば腹が立つが、ネフェニーがそう思ってくれるのならそれにこしたことはない。

 いや、そう思ってもらい、それで満足してもらわなければ困る。

 

 だが彼女はそう思わないどころか、自分が未熟だった為にシノンまで巻き込んでしまったと思っているようだ。

 くだらないことを気にするヒマがあったら強くなれと何度も言った。

 対するネフェニーはその度に、これからも今まで以上に訓練は積むつもりだ。それを踏まえて改めて礼をしたいと譲らない。

 

「何でそこまで拘るんだよ」

「・・そうせんと、自分が・・許せんのんじゃ」

「お前の自己満足に付き合ってられるか」

 

 自己満足。確かにそうかもしれない。

 しかしネフェニーはどうしても譲れなかった。

 

「そうかもしれません・・けど」

「『けど』もへったくれもねえ。俺はいらねえって言ってんだよ。

 この話はこれで終わりだ」

 

 終わり。

 

 ネフェニーはその言葉を、深く心に刻みつけた。

 この人の傍にいられるのも、もう終わり。

 大して役にも立てず、あまり一緒にはいられなかったが。それでも共にいられたのは大切な経験であり思い出になった。

 だからせめて、お礼をして終わりにしたかったのだ。

 だがネフェニーのそんな気持ちを知ることもなく、シノンの視線が窓に向けられたその時。

 

「――腹減ったな」

「・・・・・?」

 一瞬その言葉の意味を悟れず、ネフェニーは眉を潜める。

 

「何でもいいから、持ってきてくれ」

「あ・・はい」

 言われるがまま、ネフェニーは扉に向かう。その背に、シノンは言い続けた。

 

「それで充分だ」

 

 振り返るも、シノンの視線はやはり窓の外。

 視線は向けられていないが、ネフェニーは彼に向かって頭を下げた。

「はい」

 

 そういい残し、ネフェニーは静かに退室した。

 暫くして、シノンは閉じられた扉に視線を向ける。

 きっと納得いかないだろうが、自分としてもこれが精一杯の妥協だ。

 そこまで考え、シノンは自嘲気味に笑った。

 女一人に、俺もなに気を遣ってんだか。

 その笑いも、扉の向こうから聞こえてくる、石廊を叩く靴音にかき消される。

 ネフェニーではない。別の人間だ。

 やがて自室の扉が数回叩かれ、シノンの返事を待たず、その人物は入ってきた。

 

「・・・・・・・!」

 

 シノンは自分が驚愕の表情をしていることすら、判らなかった。

「なにをそんなふざけた顔をしているんですか」

「セ・・・」

「言っておきますが、貴方を見舞いに来たわけでありません。

 用件を伝えにきただけです」

 シノンの反応を一切無視し、閉じた扉の前から一切動かず、セネリオは無表情で言葉を並べた。

 

「まず初めに。貴方は命令違反を犯しましたね」

「・・あれは戦略だ」

「戦略は僕が行います」

「臨機応変に動いたまでだ。あいつにあの魔法はかわせねぇ」

「それは貴方だけの都合です。実際、貴方の都合で彼女は危険に晒された」

「待て。戦場なんてモンは危険に晒されて当然だろうが」

「戦場においての危険は、一人より二人の方が、幾分軽減されるものです。

 わざわざ僕に言われずとも、貴方ならば充分それもお判りでしょうに」

 

 明らかに軽蔑した目のセネリオを睨み返すシノン。

 だがその態度もすぐに収まった。

 

「・・ちっ。判ったよ」

「おや? 殊勝ですね。ネフェニーが重症を負ったのがそれほどショックでしたか。

 しかも、自分のせいで」

 

 シノンの睨みが甦る。

 しかも、さきほどよりもずっと強さが増していた。

 

「事実でしょう」

「・・何が言いたい」

「今後は気をつけるようにと言いたいのです。そんなことも判らないのですか?」

「判ったって言っただろうが」

「また命令無視をされては堪りませんからね。特に貴方は念には念をいれておかないと」

「くどいんだよ! 言いたいことはそれだけか。

 だったらさっさと出て行け!!」

 

 ふう。とセネリオはあからさまなため息をついた。

 貴方の言い分は間違っていないが、どうやら言葉の趣旨を履き違えているようだと言う、教師のそれに似ていた。

 

「――やはり貴方は、僕の言葉を理解出来ていないようだ」

「あ?」

「今後も、ネフェニーと組んだ際、二度とこのようなことが無いようにと、僕は言っているんですよ」

 

 さあどうでる。

 

 セネリオはシノンがどのような表情を作るか、少し期待していた。

 だがセネリオの期待とは裏腹に、シノンの表情は変わらなかった。

 

「だから、初めからそう言っているだろうか」

 

 言い切ったその言葉に、セネリオは自分の顔に驚愕の表情が混じったことに慌てた。

 彼はこの事実を自然に受け止めるのか。

 ネフェニーと組むのを、当然のこととするのか。

 

「・・そうですか」

 

 何故、とセネリオの頭の中が、その言葉で埋まっていく。

 この男の非情さは知っている。損得で物事を計る人間だと認識していたはずだ。

 この男が彼女と組むのに、一体なんの得がある。

 今回組んだのは、たまたまそういう状況だったからだ。だが今後はそんな状況など関係ない。

 ならばなぜ、この男はそのまま彼女と組むことを受け入れたのだ。

 その時、セネリオの脳裏にいつか耳にした、ミストやヨファ達のたわいない会話が再現された。

 

『何だかんだ言って、シノンもネフェニーさんのコト、気に入っているよね』

 

 そしてその時も、今も、セネリオはまさかと一笑に付した。

 それこそ、ありえない。

 この人間が、こんな短期間の内に、そう簡単に他人を受け入れるなどありえない。

 たかが一他人を、あれほど命がけで守るなど。

 

 ありえない、はずだったのに。

 

 心の中がまるで嵐のようにざわめく中、しかしセネリオの表情は最初の一瞬以外、常時平静のままだった。

「僕の話はこれで終わりです」

「ああそうかよ。だったらさっさと出て行け」

 すぐに出て行くと思ったのだが、なぜかセネリオは動かず、しかも自分をじっと見ている。

 そして、意外なことをセネリオは口にした。

 

「――貴方はそれだけですか?」

 

 先ほどからのセネリオの異様の態度もそうだが、その言葉にシノンはいよいよ訝しんできた。

 どうもおかしい。セネリオはまず自分の姿すら見るのも嫌がるはずだ。

 なのに、どうしてここまで粘る。しかもその言葉は一体なにを意味しているのか。

 

「なんの話だ」

「ミストがまっさきに言ったと思ったのですが。どうやら貴方は知らないようですね。

 わざわざ僕の口から言うのもどうかと思ったのですが。せっかくだから教えて差し上げましょう」

 

 あまりの恩着せがましい言葉に「いらねえよ」と言い切るシノン。

 だが最初から聞く耳は持っていないようだ。

 あまりお目にかかれない、うっすらとした笑みを浮かべ、セネリオは言った。

 

「僕が貴方を助けたんですよ」

 

「・・・あ?」

「貴方が倒れた時、ミストだけでは力不足だったのでね。

 僕も手を貸して差し上げた次第です」

 それはあまりにも、セネリオらしくない冗談だった。

 しかしシノンはその事実を、全面的に否定できずにいた。

 それと同時に、自分の記憶のぼやけた部分が、みるみる内に鮮明になっていく。

 

 そして記憶がその事実を確信へと導いた。

 

 そうだ。ミストが言っていた。いつものあの笑顔で嬉々として『セネリオも一緒になって助けてくれたんだよ』と。

 その時はまだやっと目覚めたばかりで意識が朦朧としており、しかも事実が事実なので容易に信じられなかった。

 結果、シノンは自然に、記憶を封じてしまっていたようだった。

 今度こそは予想通りの顔が見れたことに、満足したセネリオは更に言葉を続ける。

 

「忘れたくもなるでしょうね。よりにもよって、僕に助けられたなんて。

 さあ? どうですか。今の気分は」

「・・・・・何が目的だ」

「どういう意味でしょう」

「てめえが俺なんかを助けるなんて、それこそありえねえよ。

 恩に着せて一体何を命令する気だ」

「別に。ただ貴方が僕に助けられたなんて知れば、とても嫌がるだろうなと思ったまでです」

 セネリオの涼しげな笑みに比べ、凄みのある笑みを浮かべながら、シノンは言い放った。

 

「ああ。不愉快だ。不愉快すぎて笑えてきたぜ」

「それは何より」

 

 では、と勝ち誇った笑みを浮かべながら、セネリオは扉に手をかける。

 そしてちらりともう一度、シノンを見た。

「これで僕は、貴方に一つ借りを作りました。

 これ以上僕に借りを作られたくなければ、今後は二度と作戦を妨害しないようにして下さいね」

 

 返事も待たずに、セネリオは去っていった。

 そして足音が耳に届かなくなるまで、シノンはぎりぎりと歯を噛み締めていた。

 

 

 自室に帰る途中、セネリオはネフェニーの姿を見かけた。

 両手で盆を持ち、その盆には大小の器とスプーンが置かれている。

 きっとそれは、シノンの為に作られたものだろう。

 ネフェニーもまた、セネリオの姿を見かけ、こくりと一つお辞儀をした。

 

「ネフェニー。少しいいですか」

 

 声を掛けられるとは思わなかったのか、ネフェニーは驚く、落としそうになる盆を慌てて掴み直した。

「・・は・・はい」

「今後も、シノンの世話をお願いします」

「・・・はい・・判り・・ました」

 

 今度は深々と頭を下げるネフェニー。

 シノンとは違い、こちらは完全に理解していないようだ。

 ネフェニーの顔が上がるのを待たず、セネリオは付け足した。

 

「あの性格ですから、また戦場で苦労すると思いますが」

「・・・・・・・・・・・・・・・・え?」

 

 ぽかんとした表情で、ネフェニーはそれだけを言葉にした。

 ああ予想通り。セネリオは幾分すっきりとした顔で続ける。

 

「何か不満が・・・ああ、あり過ぎて言葉が見つからないんですね」

「あの・・私・・・また、シノン・・さんと・・」

「辛いのはよく判りますが」

「い! ・・・い・・いいえ・・・辛く・・・なんかは」

 ぶんぶんと首を横に振るネフェニー。

「あんな男に無理に遠慮することなんかありませんよ」

 手本のように無遠慮に言うセネリオに、おずおずと彼女は訊ねた。

「あ・・あの・・・私で、良いん・・ですか?」

「あの男はあの通り難解な性格ですから。適材する人材もなかなかおりませんので」

「・・・あ・・・ありが・・とう、ござい・・ます」

 ネフェニーは更に一層、深々と頭を下げた。

 

「――嬉しいですか?」

 

 何気なくした質問に、ネフェニーは兜の下から笑みを浮かべ、嬉しそうに頷く。

 彼女のその態度を、セネリオはすんなりと受け入れた。

 あまり考えたくもないのだが、ネフェニーが今どんな気持ちはよく判る。

 シノンよりも純粋に、彼女はシノンを受け入れていた。

 いや、受け入れたい、という方が正しいか。

 もう一度お礼を言って、ネフェニーはシノンの下に急ぐ。

 その背を、セネリオがしばらく見つめていたなど、ネフェニーは知る由もなかった。

 

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