『境』10

 

 食事の気が散るだろうからと、器を置いて、早々に部屋を退室するネフェニー。

 そしてその足は、外に向けられた。

 足取りが幾分軽く感じる。見渡す視界も今までより明るく見えた。

 何事も気の持ちようなのだと、ネフェニーは改めてそう実感した。

 その気持ちをそのまま心に残し、ネフェニーは次の目当ての人物に向かって駆ける。

 自分の、もう一人の大切な恩人に。

 いつもいつも助けてくれる、大切な人に。

 

「チャップさん!」

「おおネフェニー。どうじゃったね? シノンさんの具合は」

「うん。元気じゃったよ」

「ほうか。そりゃぁ何よりじゃ。

 わしも行こうゆぅて思うたんじゃが、あまり見舞い客が来て気疲れさせるんもなんだしなあ」

 

 果たして彼の場合は違う意味で気疲れするのではないのだろうか。

 だが今の二人はそこまで考えが及ばなかった。

 

「じゃあ今度は、私と一緒に行こうか」

「そうじゃの。その時は声を掛けてくれ」

「うん!」

 元気よく頷くネフェニーを見て、ようやくチャップも安堵できた。

 ネフェニーもチャップにとっては、もう大切な娘のようなものだ。親として、娘の悲しむ姿は見たくない。

 

「そ、それでね・・チャップさん」

 そんな愛娘が、少し気恥ずかしそうに言葉を続けた。

「私・・これからも、シノンさんと組めるんだって」

「ほう! そりゃぁえかったなあ。

 お前さん、てっきりこれで最後ゆぅて思うとったんじゃろう?」

「う・・・うん。

 じゃけぇ・・凄く嬉しかった」

 心の底からの微笑みに、チャップは改めて、ネフェニーの気持ちを悟った。

 

 こんなに喜べるのなら、もうその気持ちは本物だろう。

 やっとネフェニーにも、そんな気持ちを抱ける人物が出来たのか。

 嬉しくもあり、しかし親としての寂しさもチャップは感じていた。

 だがやはりいつも願うのは、子供がいつも幸せであることだ。

 そんな彼の心境など知らず、喜び続けるネフェニーに、チャップは一言掛ける。

 

「ネフェニー」

「ん?」

「その気持ちを、大事になあ。頑張りんさい」 

「・・・・・・・! うん」

 

 この今の気持ちを、決して忘れないように。

 心に刻みつけるように、ネフェニーははっきりと言葉を返した。

 

 

 

 ネフェニーが再びシノンの部屋を訪れた時、もうすでに食事が終わっていた頃だった。

 空の器を見て、ネフェニーはほっとした。

 

「お前が作ったのか? それ」

 

 器を指差し、シノンは訊ねる。それにネフェニーはこくりと頷いた。

 下の弟妹たちが病気になった時、滋養がつくようにとよく作っていた薬膳スープ。

 少しクセにある味なので、弟妹達が小さい頃に、拒否されたのを思い出した。

 

「・・あ、あまり・・味は、よくありませんけど・・・滋養はあります・・から」

「ああ、クリミア地方でよく使われる薬草が5種類くらい入っているな」

 確かに使用した薬草は5種類。しかしすり潰したりスープと溶け合ったりとして、原型はあまり残っていないはずだ。

 それでもぴたりと言い当てるシノンに、ネフェニーは目を見開いた。

 

「す・・・すごい・・よお判りましたね・・・。

 シノンさんて・・もしかして・・その、料理とか・・出来るん・・ですか?」

「まあ一通りはな」

 

 器用そうだと思っていたが、やはり何でも出来る人なのだと、ネフェニーは感嘆の思いで見つめていた。

 あまりに感心するその視線を、だが一睨みで黙らせるシノン。

 びくりと身を潜め、ネフェニーは改めておずおずと、ベッドの横に添えられた椅子に座った。

 睨んだ後で言うのなんだと思いながらも、シノンは口を開いた。

 

「・・お前には世話になったな」

「えっ!?」

 素直に仰天するネフェニーの顔を見て、シノンはあからさまにむっとした。

 

「なんだ。俺が礼をいうのが、そんなにおかしいか」

「い・・いえ。その・・・。そんなコト言われるとは、思わんかったから」

 口走る自分の口を慌てて押さえながら、そうじゃないとネフェニーは言い直す。

 

「だっ・・だって、その、あた・・当たり前の・・コトじゃから・・その」

「あ?」

「・・け、怪我したり、病気になった人の・・世話をするんは・・当たり前・・じゃろ?」

 伺うように訊ねるネフェニーを見て、シノンはようやく合点がいった。

 

――ああこいつ、キルロイやミストと同じ部類なんだな――

 

 善行を当然のごとく、自然とやってのけられる人種。

 それは一種、得な人間とも言える。

 昔はそういう部類の人間を、シノンは毛嫌いしていた。

 相容れないものだと判断し、自分からは決して近づかないようにしていたのだが、

 グレイル傭兵団に入り、キルロイやミストなどと関わっている内に、嫌いとまではいかずとも、苦手止まりにはなっていった。

 

 ネフェニーはどうだろう。

 彼女は間違いなく善人だ。

 そして自分とは、真逆に位置する人種だ。

 それでも、嫌いだとは思えなかった。

 

「シノン・・さん?」

 

 一方、シノンの表情が少し薄らいだのを見て、ネフェニーは不安を感じていた。

 自分はよほど彼の癇に障ることを言ってしまったのだろうか、慌ててネフェニーは頭を下げる。

「すっすみません・・・変なこと、言って」

「・・別に」

 だがシノンはすかさずそれを否定した。

 

「すくなくともお前は、変だとは思っていないんだろう」

「は・・はい」

「じゃあそれでいいじゃねえか。

 俺に気ぃ遣うんじゃねえ。大体お前は変に気を遣いすぎなんだよ」

 

 シノンの言葉が、チャップの言葉と重なる。

 二人の人間に言われ、ネフェニーは改めてそうなのだと知った。

 しかし、とネフェニーは思う。 

 どんな親切も、それで不快を与えれば、意味がないではないか。

 それをネフェニーは、シノンに訊ねる。

 そしてシノンは「馬鹿かお前は」と一言で切り捨てた。

 

「意味があるとかないとか、そんなくっだらねぇこと、それこそ必要ねえだろうが。

 大体いらねぇっつってんのに、礼がしたいだとかしつこいくせに、なんでそこだけ気を遣うんだよ」

「だ・・だから、世話をするのは・・当然じゃから。

 お礼は・・また別の」

「別じゃねえ。

 俺が目を覚ますまで、ずっと看てくれたんだろう。

 ――それで、充分だ」

「・・でも」

「それで充分なんだよ! 俺は」

 有無を言わさぬ怒鳴り声に、ネフェニーは口を閉ざし、俯く。

 その姿に、シノンは顔を歪めた。

 

 今は怒鳴り散らす時ではないし、自分が彼女にこんな気持ちを抱かせる筋合いもない。

 悲しませる意味の言葉では決してないのだ。

 自分の口の悪さを改めて恨み、そして肝心な時に察せないネフェニーの鈍感さにも、筋違いだが怒りを覚えた。

 

「だから・・っ。

 俺は・・それで充分嬉しいんだよ。判ったか!」

 

 普段はあまりしない言葉を口にした怒りと恥ずかしさのあまりに、更に怒鳴り散らしてシノンはそっぽを向いた。

 恐る恐る顔を上げるネフェニーの目が、こちらを向いていないシノンの顔を見つめる。

 

 自分も重々不器用だが、この人も大概不器用だ。

 何となく親近感じみたものを感じ、ネフェニーの顔が思わず緩む。

 そして一言「ありがとうございます」と呟いた。

 

 自分の気持ちを受け入れてくれた、この人の優しさが嬉しかった。

 優しい人は、優しさをちゃんと判ってくれる人だと聞いたことがある。

 心無い人はどんな親切も、それを受けて当然のこととして、実感はしない。

 この人は親切を受け取らない。それを親切だと実感しているからだ。

 だからこそ、ネフェニーは改めて礼を告げた。

 

「礼を言うのは早ぇ」

 

 え? と意表を突かれたネフェニーの顔を、視線を戻したシノンが見つめる。

「これから先も長いし、色々あるんだからよ。

 それでいちいち礼を言い合うのもなんだから、全部終わってから言いな」

「え・・あ。あ、あの・・」

 しどろもどろになるネフェニーに、ずいと顔を近づけるシノン。

 

「何だ聞いてないのか。お前は俺と、これからも組むんだとよ」

「き、聞いて・・ます」

「不服そうだな」

「そっそんなことは」

「無理すんなよ。顔に出てるぞ」

「無理じゃない。嬉しい!!」

 

 面と向かってそう言われては、シノンもこれ以上は言葉が出なかった。

 ネフェニーも感情のままに言った己の言葉を思い出し、改めて顔を赤らめる。

 火照る顔を隠すように俯かせ、だがネフェニーは言葉を続けた。

 

「ほ・・本当、ですから・・ね」

「――ああ」

 ようやく火照りが引いた頃、ネフェニーは視線をシノンに戻す。

 

「その・・これからも・・宜しく・・お願いします」

 

 消え入りそうな声だが、視線は外さなかった。

 その言葉の後に、シノンは一つ頷いた。

 言葉にこそ出さないが、シノンの答えはその頷きが全てなのだろう。

 ほっとして、ネフェニーは胸を撫で下ろした。

 

「お前」

 

 突然呼ばれ、ネフェニーはぴくりと肩を震わせた。

「は、はい」

「本当に俺でいいのか」

「はい、もちろん」

「――ふうん」

 

 質問の意図がよく判らず、小首を傾げるネフェニーを尻目に、シノンは体を横にした。

 話しすぎて疲れたのだろうか。就寝の邪魔をしてはいけないと、ネフェニーは慌てて立ち上がり、盆を手に持つ。

 

「それ」

 

 いつの間にか少し上半身を起こしたシノンが、器を指差し、続いて二つの香辛料の名前を口にした。

「この二つを入れてみろ。それで大分味が落ち着くはずだ」

「は・・はい」

「今度作る時、忘れるなよ」

「はい・・判り・・ました」

 

 こくりと頷き、ネフェニーは盆を持って静かに扉を閉められた。

 閉ざされた音を聞き届け、シノンの口が少し緩む。

 自分でいいのかと聞かれ、ネフェニーは迷い無く答えた。

 それが、シノンの口元の原因だった。

 

――俺の何がいいんだか。

  本当に、変わった女だな――

 

 それでもやはり、嬉しく思えたことを、シノンは押し殺すことなく、あえてそのままに感じてみた。

 嬉しくて笑えるのも、いいもんだな。

 その時、無意識にだが、ネフェニーの笑顔を思い出される。

 すると嬉しさが更に増していくことに、シノンはしばらく気付けなかった。

 

 

 

 

 大切だと思う者の傍にいられる幸せ。

 大切だと思う者から、傍にいたいと思われる幸せ。

 

 

 あの男ですら、いずれそれを手に入れることも、出来るのだろう。

 以前は低かった確率が、ネフェニーという存在で、それはより高くなっていった。

 

 あんな男ですら、得られるものも。

 自分には決して、得られない。

 

 

 煌々と照らされる明かりの中、セネリオは無意識に、自分の手を見つめた。

 今も変わらぬ、小さな手。

 禍々しいことこの上ない手。

 見続けている内に、それが堪らなく不愉快になっていく。

 そしてそんな不愉快な気分にさせたシノンを、セネリオはますます嫌いになっていった。

 

 

 

 

 

あとがき

 シノネフェなのに、セネリオで締めてしまった。

 すぐに終わると思っていたのに、異様に長くなってしまいました。いつものことです。

 もともと、辛いことってなんだろうなあと思っていたとき思いついたのが、

 目の前で大切な人が死ぬ、あるいは殺されることだろうなと思いまして。

 しかも自分は成すすべもなく、見ることしか出来ないとなると、辛さも一入だと思いました。

 普通の村娘さんには、尚更耐え難いことでしょうけど、ネフェニーに実感してもらいたかったんです。

 あと、ネフェニーはチャップさんの前だと若干子供っぽくなってしまうと思うんですよ。

 むしろチャップさんと会話しているネフェニーが、一番可愛いと思うんですよ。

 チャップさんはやはり偉大、というお話でした(誤表現なし)

 

 

 

ブラウザを閉じて、お戻り下さい。