『境』8
部屋の扉が、おもむろにノックされる。
「誰だ」
誰もいない部屋で、上半身だけを起こした状態で、シノンは扉に目を向ける。
「ネフェニー・・です。
今・・大、丈夫・・・・ですか?」
「ああ」
そっと開かれる扉から、ネフェニーは静かに入ってきた。
シノンの姿を見て一瞬立ち止まり、扉を閉じた場所から動かなかった。
「シノン・・・さん」
ネフェニーは、ゆっくりと頭を下げた。
「ごめんなさい」
彼女が顔を上げるのを確認してから、シノンは不機嫌な顔で言い放った。
「なに謝ってんだ。お前はよ」
「・・・・・・」
「ケガをして動けなくなったことか?」
「・・・・・・」
「それで、俺の手を煩わせることになったことか?」
ネフェニーは何も言わない。ただじっと、シノンの視線から瞳を逸らさずにいた。
「俺もケガしてたのに、お前の傷治すために薬を使わせちまったことか?
そんな状態で敵さんが現れて、お前を庇わなきゃならなくなったことか?」
徐々に鋭くなる目つきも、だがネフェニーは決して逸らさなかった。
絶対に、逸らすつもりはなかった。
「勝てたはいいが、それで本気で俺がヤバくなってんのに、自分の方の治療を優先にしちまったことか?
そして、それが原因で俺が寝込む羽目になったことか?」
シノンの視線が、今までで一番鋭くなった。
「そんなくだらないコトを、俺が目が覚めるまで、ずっとぐだぐだ考えていたことか!」
彼の怒気を風圧のように感じながら、ネフェニーは言葉を返した。
「・・・全部・・・です」
「・・・・・ばーか」
先ほどの勢いとは別人のように、シノンは静かに言った。
「最後以外、謝るところなんて、カケラもねえよ」
優しい声だった。
――ああ、シノンさんじゃ――
くしゃりと顔をゆがめ、ネフェニーはシノンに駆け寄った。
※
シノンは自分よりも背が高い。だからいつも自分は彼を見上げていた。
だが今日は逆に、自分を見上げる彼の顔を、ネフェニーは大事に、愛惜しむ様に見つめた。
「シノンさん・・・。
目ぇ覚めて・・良かっ・・た・・・。
嬉しかった・・です」
あまりにも感激する彼女のテンションとは逆に、シノンは冷静だった。
「お前、ずっと俺を看てたんだって?」
「あ・・は・・はい」
「死んでねえし、勝手に目も覚ますって判ってたんなら、放っときゃ良かったのに」
「でも・・」
「それに、お前様子が変だったって?
お前が来るまで他の奴等も来たけど、みんなしてお前のことを言ってたぞ」
必ずお礼も言えと散々言われたが、それはひとまず置いておくことにした。
そんな彼の気持ちとは裏腹に、ネフェニーはぎくりと顔を強張らせる。
そこまで自分は酷い状態だったのか。
結局は余計な心配をかけてしまい、ネフェニーは恥ずかしさと申し訳なさのあまり、顔を赤らめた。
「ああ、そういや、今も変だな」
え? と思わず自分の顔に手をやるネフェニーに、シノンは少し顔を近づける。
「顔が固まってんだよ。
お前、ずっとそんな調子だったみてぇだな」
「そう・・みたいです」
「お前なあ」
少し呆れ、シノンは腕組をした。
「俺が死んだら、お前はもっと変になっていたのかよ」
「わ・・判りま、せん・・」
実際、こんな状態に陥ったことも初めてだったのだ。彼が死んでいたら、自分は本当にどうなっていたのだろう。
そう考えると、ネフェニーは背筋が冷たくなるのを感じた。
「俺が死ぬって、考えもしなかったのか」
「・・実際、死にそう・・じゃったけぇ、死ぬかもしれんてことは・・考えてました」
「俺たちは戦争に参加してんだよ。死ぬことだって充分有りえるし、死んでも何もおかしいことはねえ」
「でも・・だからって・・シノンさんに、死んでほしゅうは・・ありま、せん」
「お前がそう思ってても、死んじまうことだってあるんだよ」
「シノンさん!」
突如あげるネフェニーの声に、シノンは思わず目を見開いた。
「っ! ・・シノン、さんは、あの時、死んでも・・良かったん・・か?」
彼のこれまでの言葉は、ネフェニーにはこう聞こえて仕方が無かった。
きっと言葉に出すのも辛いのだろう。震える声で言うその問いに、シノンは迷いなくこう答えた。
「ああ」
無表情で即答するシノンに、今度はネフェニーが目を見開く。
悲しみに満ちていくネフェニーの顔を、だがシノンは淡々と見つめていた。
「少なくとも、お前だけは助けることが出来たんだ。そこまで悔いは残ってなかったな」
「そんな・・勝手じゃ・・」
「ああ、勝手だな」
息が詰まる。ネフェニーは無意識に、胸元の服を掴んだ。
「約束・・したのに」
「ああ、約束したな。一緒に生きて帰ろうって」
胸に触れる部分から、鼓動が徐々に速まっていくのを感じた。
「守る気なんか・・なかったんか・・?」
「あったさ。あったから約束したんだよ」
「じゃあなんでそんな、無責任なこと言うんじゃ!!」
激昂と共に、ネフェニーの身体から力が抜けたように、すとんと椅子に落ちていく。
俯き、唇をかみ締めるネフェニーに、シノンはやはり淡々と言葉を掛けた。
「ああ、無責任だな。
お前やあいつらに、生きてほしいって思われてんのに、そんな気持ちを裏切って踏みにじる。
死なんてモンはな、無責任極まりないもんなんだよ」
ネフェニーの死角で、シノンもまた、無意識に手を握り締めていた。
「俺にだってな、死んでほしくない人がいたんだよ。
あの人こそ、生きなきゃいけない人だった。
でも、結局は死んじまった。
返しきれないほどの恩を、なに一つ受け取ってくれないまま、無責任にな」
顔を上げるその先には、やはり無表情のシノンの顔。
だがその瞳だけは、彼の気持ちを雄弁に語っていた。
そしてその気持ちを鏡のように、ネフェニーは己の顔で表した。
シノンはそれを見て、少し微笑んだ。
こいつは本当に、どこまでお人よしなんだか。
「でも、あの人の死を恨むなんてことはしなかったぜ」
その言葉に、ネフェニーは慌てて弁解した。
「わっ私だって、シノンさんを恨んでる訳じゃ」
判ってるよと頷き、シノンは言葉を続ける。
「いいか。俺たちはな、死ぬ覚悟と、死なれる覚悟も持たなきゃならねえ。
どんなに嫌がろうが、これは絶対だ」
こくりとネフェニーは頷く。
悲しいが、その通りなのだろう。
だがそんな深刻なネフェニーとは逆に、シノンはにやりと笑った。
「ま、それを踏まえて、なるべく死なねえようにすりゃあいいんだよ」
「・・つまり、どういうことじゃ?」
「お互い死なせないようにするこったな」
「・・シノンさんの言葉は、矛盾しとる」
「そうだな。
でもまあ、それが結局、一番いいだろ?」
実に楽しそうにシノンは笑う。
それに苦笑しつつも、ネフェニーの顔にようやく笑顔が戻った。
まだ心の憂いは晴れなかったが、ネフェニーはあえてそれを残した。
悲しいが、これはとても必要なことなのだと、無意識に心が悟ったのだ。
そしてこの人も、そうして生きているのだと、ネフェニーは悲しく思いながら、それでも微笑み続けた。