『境』7
シノンへの見舞いの数は後を絶たない。
キルロイを初め、ミストやヨファ、ガトリー、ティアマト、オスカー、ボーレもちょくちょく部屋を訪れていた。
そしてその一人が、シノンの目覚めを確認した。
ぼやける視界に灰色の天井を確認し、最初にシノンがしたことは舌打ちだった。
――なんだ。生き残っちまったのかよ・・恰好悪ぃ・・・――
どれくらい眠っていたのか判らないのが、この鉛のような身体のだるさからすると、そうとう経っていることだろう。
しばらくそのままぼぅとしていると、部屋の扉がゆっくりとノックされる。
その音に、久々に使う声帯を震わせながら、ぞんざいに「あぁ?」と声をあげると、扉が勢いよく開かれた。
「シノン!」
キルロイかと思ったが、こいつの方か・・・。
駆けつけ、自分の顔を覗き込むように、ミストは喋り倒した。
「シノン! シノン! 大丈夫? わたしが判る?
良かったあ・・・やっと起きてくれて・・・」
「うるせぇな。叫ぶんじゃねえよ」
「あ・・あのねミスト。嬉しいのは判るけど、あまり大声は」
ミストの後ろから、件のキルロイの声がする。
一応いたのだろうが、ミストの騒がしさに完全に影になってしまったようだ。
「なによ。心配してたんだからね。
血もいっぱい出るし、顔も真っ青になっていくし。
その内息もしなくなって・・・。
すっごく・・怖かっ・・たん・・だから」
語尾の最後から、涙がこぼれ始める。
予想はしていたが、やはりこれは堪える。無理やり身体を起こし、覇気の無い声でシノンは怒鳴った。
「だからうるせぇっつってんだろうが。これくらいで鼻水垂らしてびーびー泣いてんじゃねえよ」
「で! 出てないわよそんなの」
言いながらも、ミストは慌てて鼻を隠す。だがそれでようやく涙もおさまったようだ。
その間に傍にきたキルロイが、一言断りを入れて、シノンの症状を看る。
「うん。もう大丈夫なようだね。
でもしばらく身体が重く感じると思うから、まだ安静にしていてね」
「酒は?」
「怒るよ。シノン」
珍しく鋭い目つきになるキルロイに、冗談だよとシノンは片手をあげた。
「どれくらい寝ていた?」
「一週間ほどだよ」
それはまた随分寝ていたもんだ。無意識にあげたシノンの舌打ちと共に、ミストが笑顔で言った。
「じゃあ私、ネフェニーさんとか、他の人も呼んでくるね」
「ネフェニー?」
突如出された名前に、シノンが不思議そうな顔をするのが、ミストには解せなかった。
「何言ってるのよ。ネフェニーさんが一番心配してたんだからね。
それに、シノンが目が覚めるまで、ずっと看病してくれてたんだよ」
だからお礼も言わなきゃね、と言い置き、ミストは部屋を出て行った。
残されたシノンとキルロイは、しばらく無言であった。
ミストの言葉に、一瞬にして不機嫌さを増したシノンの表情を見ていると、非常に声を掛け辛くなったのだ。
まあ聞かないでも判る。彼は人に心配されるのが死ぬほど嫌いな性格だ。
更に、自分の預かり知らぬところで借りを作られるのも嫌いなのだ。
まあ看病は置いといても、心配ぐらいはしてもいいと思うのだが。
「シノン」
キルロイは静かに口にした。
シノンはそれに対し、視線だけを彼に向ける。
「どんなに嫌だと言われても、危険な状態の人間を心配しない人なんていないよ」
「・・・死んでねえよ。だから心配する必要もねえだろ」
「うん判った。もう心配したりはしない。その様子じゃ、本当にする必要もなさそうだしね」
少し微笑んで、キルロイは立ち上がった。
「でもね、もう一つある。これは判ってほしい」
「何だよ」
「君が目を覚ましてくれて、喜ばない人はここにはいないよ。絶対に」
本当に良かったと、いつもの笑顔で、いつもの優しい声でキルロイはそう断言した。
だからこいつは苦手だ。
絶対に、嘘をつかないから。
※
「ネフェニー」
自主訓練を黙々とし続けるネフェニーに、チャップが声を掛けたのはもちろん朗報を聞かせるためだった。
「シノンさんが目を覚ましたようだよ」
え? と固まり、槍を持ったまま、ネフェニーは目を見開いた。
「いまヨファから聞いてのぉ。わしもお前さんを見かけたら知らせてくれってゆわれたんだ」
きっとこの瞬間を毎日待ちわびていたはずだ。
だからその瞬間に立ち会っても、何も変わらないネフェニーの様子が、チャップには不思議だった。
すぐに部屋へ行くものと思ったものの、そのままの状態で動かず、視線はあちこちをさ迷っている。
それに、表情も相変わらず戻ってきていない。
「ネフェニー。どうしたね。嬉しくないのかい?」
「あ・・・」
顔を俯かせ、返事も返せない。
これまでの状態と一緒だ。
シノンさえ目を覚ませば、それも解消すると思って暫く様子を見ていたのだが。
どうやらこれはそういう問題ではないらしい。
チャップはネフェニーを伴い、どこか落ち着ける場所を探し、ひとまず座らせた。
その目の前に座り、改めてチャップはネフェニーに優しく語りかける。
「なあネフェニー。ちょっと聞いても良いかい。
いま、お前さんは、何を考えとる?」
「何・・を?」
「っちゅうより、何を考えんにゃぁいけんゆぅて思うね?」
「考えにゃ・・いけんこと・・・」
「それが、判らんのんじゃろう?」
チャップはネフェニーの顔を見守り続けた。
やがてその顔に、ようやく変化が訪れる。
今日まで一人で何とかしようと思っていた。みんな一人一人大変なのに、余計な手を煩わせたくなかったからだ。
それでも、自分ではどうしようもないらしいと、ネフェニーは自分の表情が崩れていくことでようやく悟った。
「うん・・うん・・・。
私・・シノンさんに・・何をすりゃぁええんか、判らん」
その声は、いつものネフェニーにしては、少し幼さが混じった声だった。
「私がケガして動けのぉなって、シノンさんが助けてくれて。
でも、シノンさんだってケガしょぉったのに。すぐに手当てすりゃぁ、こがぁなことにゃぁならんかったのに。
でも私の傷治すんに、薬みな使ってしもぉたけぇ、それも出来のぉて。
ずっと、ずっと血を流して、でもずっと私を庇って戦って・・それで・・それで・・。
それで・・・」
あの時見た光景がまざまざと甦り、ネフェニーは自分の顔を両手で覆った。
幻覚でもなんでも、倒れるシノンをもう見たくはなかったのだ。
「それでずっと、自分のせいにしとるのかい?」
ゆっくりと、ネフェニーは頷く。
「うん・・でも判っとる。それが一番、ようないことだって。
団長さんにも、言われたんじゃ」
「うん。そうじゃなあ。
そがぁなこと、シノンさんが一番望んどらんじゃろうさ」
震えるネフェニーの肩をぽんぽんと叩きながら、チャップは頷いた。
いまだ離せない両手の隙間から、ネフェニーのか細い声が漏れ出でる。
「でも・・それなら・・私は何をゆやぁいい?」
心配や、悲しみ悔やむことは、シノンの自尊心を傷つけることになる。
だがあの怪我を見て、助けてくれてありがとうと、喜ぶことなど出来るわけが無い。
結局自分があの人にしてあげられることなど、何一つないのではないのか。
堂々巡るする思考は、やがて彼女から表情を奪っていった。
「こんなんじゃあ・・会えん・・・。
会わせる顔も無い」
うな垂れるネフェニーの頭を、チャップはゆっくりと撫でる。
どうしようもなくなり、心細くて堪らない時には、人の温もりが一番だということを、彼はよく知っていた。
「ネフェニー。お前さんは本当に、人の心を思いやる子だねぇ」
彼女は人の気持ちを第一に考える。
それ自体は良い事なのだが、逆に自分の気持ちは押さえ込んでしまう、ということになる。
故に、いざ自分の気持ちを確かめようとも、それが上手く出来なくなってしまうのだ。
それは優しさの代償とも言えるだろう。
「でもなあ、時にゃぁ自分の心も思いやらんと、相手の為にもならんよ。
人の気持ちを大切にするんじゃったら、自分の気持ちも大切にせにゃぁな。
どっちも、同じもんなんじゃけぇ。な?」
ゆっくりとだが、顔を上げるネフェニーの頭から、チャップは手を離した。
「シノンさんが目を覚まして、最初に何を思うた?
大丈夫じゃけぇ、言ってごらん」
何を思っても良い。大丈夫だ。
チャップの言葉が、素直にネフェニーの心に染み渡り、固まった心が再び動き出す。
何を思った?
決まっている。そんなこと。
「う・・嬉し・・・かった」
生きていてくれて嬉しかった。
本当に、心の底から。
その気持ちを表すように、ネフェニーの目から涙が溢れ出した。
「じゃあそれを、シノンさんにも、ちゃんとゆぅて伝えんにゃぁの。
お前さんの、大事な気持ちをな」
ネフェニーは何度も頷いた。
何度も。何度も。