『境』6

 

 シノンは目を覚まさなかった。

 

 出血多量が原因だろうが、傷自体は完全に回復しているため、あとは休めば必ず良くなると、キルロイはそう言っていた。

 それでも、ネフェニーの憂いは晴れなかった。

 先に回復していたネフェニーは、眠り続けるシノンを毎日見舞っていた。

 せめて看病だけはと願い、決して無理はしないと約束し、毎日部屋を訪れていたのだ。

 そんな彼女を、皆は心配していた。

 あの戦闘以来、ネフェニーの顔から、表情が一切失われていたからだ。

 

 最初は重症の原因を自分のせいだと悔やみ、悲しんでいるのかと思われた。

 だが不思議なことに彼女の顔からは、悲しみも悔しさも見当たらない。

 大丈夫かとティアマトが訊ねても、迷うようにネフェニーは視線を逸らすだけで、答えることはなかった。

「絶対に、無茶だけはしちゃ駄目よ」

 ティアマトの言葉に、小さくもしっかりとネフェニーは頷く。

 今はそれで、よしとすることにした。

 

 

 

 それから数日経つも、シノンの目は相変わらず閉じられたままだった。

 それに反して、体力も回復していたネフェニーは、日課となったシノンの看病とは別に時間を作った。

 宿舎から離れた広がる草原にいる、目当ての赤い騎士。

 そしてその横には、一人の天馬騎士の女性もいた。

 その二人の姿は、相変わらず違和感も無く自然だと、表情を失くした顔でネフェニーはそう思った。

 

「ネフェニーさん」

 声をかけたのは、天馬騎士のマーシャの方だった。

 

「もう大丈夫ですか?」

「・・・はい・・・。

 すみません。ご迷惑・・お掛けして」

「迷惑なんかじゃありませんよ。心配はしましたけどね。

 でも、傷もすっかり治ったようで安心しました」

「ありがとう・・ございます」

 

 晴れやかなマーシャの笑顔とは逆に、やはりネフェニーの顔から何も表情が伺えない。

 そんなネフェニーに、ケビンは変わらぬ声量で言葉を掛けた。

 

「あまり無理をせん方がいいぞ。もう暫く休むといい。

 戦の後は心身ともに異常を来たすこともある」

「・・でも・・また・・訓練を見て、もらいたかったん・・ですけど」

 ぽそぽそと話す彼女に、ケビンは一本の手槍を突き出した。

 

「では構えてみるといい」

 

 え? とマーシャはケビンを見た。

 病み上がりの人間にいきなり訓練なんてそんな。ケビンさんじゃあるまいし。

 ケビンの指示に、ネフェニーはおもむろに両手で受け取り、構える。

 そして突きを繰り出そうとした瞬間「駄目だ」と言葉がかかった。

 

「何もこもっておらん」

 首を横にふるケビンに、意味が判らず見返すネフェニー。

 

「何もこもっていない武器など、武器としては成り立たん。

 今、何を考えていた」

「・・・もっと・・強く・・・。

 強くなろうと・・思いました」

 

 自分がもっと強ければ。

 あんな失態を犯さなければ。

 

「言葉に表しても、心身が思っていない。それが何もこもっていない状態だ。

 そんな状態で訓練しても、身体にはなにも沁み込まないだろう。

 やはり今はゆっくり休むといい。はっきり言おう。今の君に訓練は無駄だ」

 

 この人は上辺だけの言葉など言う人ではない。全て見た通りの真実のみを語っているのだ。

 槍を返し、頭を下げて、ネフェニーはとぼとぼと引き返していった。

 その背を見送りながら、マーシャは信じられない思いでケビンを見た。

 

「なんであんなことを」

「今の彼女は、自分の状態を把握できていない。

 それでは訓練しても意味がない」

 即答するケビンの顔は一人の騎士として、そして彼女を一人の戦士として認める顔だった。

 それでも、マーシャは納得いかなかった。

 

「でも無駄だなんて・・ひどいですよ。ケビンさん。

 ネフェニーさんは、強くなりたくてケビンさんを頼ってきたのに」

「む・・・しかし」

「そりゃあ頼りすぎるのはいけないけど、ネフェニーさんはそんな人じゃないですよ」

「いや、しかしだな。マーシャ殿」

「少しはネフェニーさんの気持ちも考えて下さい!」

 

 叫び、マーシャは白馬に飛び乗り、そのまま飛び去っていった。

 

 本来、自分が怒るのは筋違いだと判っていても、それでも言葉が止まらなかった。

 自分がもし彼女の立場だったら、自分と組んでいるケビンが重症を追ってしまったら。

 一番に傍にいたのに、そんな事態を引き起こしてしまったら、やはり悔やんでも悔やみきれない。

 

 でも、とマーシャは思う。

 自分の気持ちは、彼女とは違う。

 自分のケビンに対する感情と、ネフェニーのシノンに対する感情は違う。

 ネフェニーは純粋に、シノンに対する責任を負おうとしているのだ。

 だが自分が背負うのは、そんな綺麗なものではないのかもしれない。

 その身勝手な気持ちを、無意識に抱いてしまうことに、マーシャは恥ずかしさを覚えた。

 

 

 夜。ほとんどの者が寝静まった時刻。

 薄暗い明かりが灯る中、ネフェニーはシノンの顔をじっと見つめていた。

 あの時の青ざめた顔とは違う。ちゃんと血色も良いし、呼吸も正常だ。

 こんな暗がりでも、それははっきりと判る。

 違うのは、その目が開かれていないことと、その口から声が出ていないこと。

 ネフェニーは固まらない視線で、シノンを見つめ続け、様々なことを考えた。

 そして最後には必ず、がくりと肩を落とした。

 

――出来ない・・・。

  何も・・――

 

 その時、部屋の扉が遠慮がちにノックされ、扉の向こうから若い男の声が聞こえた。

 その声に答えると、扉はゆっくりと開かれた。

 入ってきたのは、アイクだった。

 

 戦が終わった後、アイクは必ず負傷者を見舞う。

 そしてその者の傷が回復するまで、毎日その人の部屋を訪れるという。

 言葉を交わせるものには労いと激励を、シノンのように安静を要するものには、その様子を確認するのだ。

 

 誰も死ぬなと、彼は戦の前に必ず言う。

 恐らくその言葉が、彼の最大の願いなのだろう。

 甘いと言われようとも、この人は一人の死者も出したくないと、本気で願っているのだ。

 その願いに、ネフェニーはいつも賛同していた。

 嘘偽りの無い言葉だと、素直に信じられるからだ。

 

「今日も、起きなかったか」

「・・・はい」

 全ての原因が自分であるかのように、ネフェニーはすみませんと頭を下げた。

 

「いや、負傷者が出たのは、全て将である俺の責任だ」

「いえ・・いえ。

 私が・・悪いんです。・・期待に・・応えられなくて、すみません、でした・・・」

「いいや、もっと早く救助に向かわせられなかった俺のミスだ」

 それに対し、違う違うとネフェニーは頭を振った。

 

「私です・・私が・・・。

 お願いです・・・」

 

 私のせいにして下さい。

 

 感情の欠落した表情の中で、ただそれだけを願っているように、アイクには見えた。

 だがその願いを受け入れることは出来ない。

 

「あんたはよくやってくれた。戦い、生き残ってくれた」

「でも・・シノンさんが」

「シノンはシノンで、戦いぬいた。

 それにシノンは、自分の負傷を他人のせいにするような奴じゃない」

 

 それははっきり言っておくと、アイクはまっすぐネフェニーを見ていった。

 それはつまり、ネフェニーの思いは、逆にシノンを侮辱することだと、そう言っているのだ。

 ゆるゆるとネフェニーの視線が冷たい床に向かう。

 そしてもう一度、ごめんなさい、と謝った。

 

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