『境』5
目の前の敵と、背後の気配を同時に注意しながら、シノンは徐々に後退していく。
長弓から他の弓に持ち替え、シノンは力を込めて放つ。
矢は男の左肘に刺さり、肘当てまで届いていた。
だらりと左腕が垂れ下がる。
かなり豪速と威力に、男は警戒した。
だが、まだ持ちこたえられる。
所詮弓兵は隣接されれば終わりだ。あの男はきっとあの手負いの兵を庇うだろう。その距離まであとわずか。
それまでは持ちこたえられる。
シノンが更に後退し、弓を構え、放つ。
足を狙った矢を、男は剣でさばいた。
その動作の隙に、シノンの矢が上体を狙う。
男はとっさに顔を逸らす。肩当と共に右肩に矢が突き刺さる。
矢を番え、放つ動作があまりにも速い。並みのものなら連射のように見えるだろう。
かなりの腕前だ。それに鎧を貫けるほどの腕前など、そうそうお目にかかれない。
だがここまでだ。
ついにシノンはネフェニーのすぐ目の前にたどり着いた。
男はシノンに言い放った。
「大人しく我が刃をその身に受けろ。痛みは無い。痛みを感じる暇も無く、死なせてやろう」
シノンは静かに笑った。
「やめとけ。無駄だ」
「無駄だと? 避けられると思うのか。その傷で」
男の指摘どおり、脇腹からはいつまでも止まらない出血により、シノンの下半身は血で塗れていた。
矢を放つ力を込めるたびに、血が溢れだしていたのだ。
これでは、もう一度ネフェニーを担ぎ上げることも不可能だろう。
だがシノンは片方の口端を持ちあげた。
「おたくも随分傷だらけじゃねえかよ」
「ほざけ。どれほどの腕前だろうが矢が尽きた弓兵など、雑兵にも劣るわ」
その指摘通り、シノンはそれまで持っていた、今は壊れた弓を放り捨てた。
確かに、この男の腕ならば、あと数発食らえば危うかったかもしれない。
油断しすぎたかと後悔したが、それももう杞憂だ。
この弓兵からの攻撃はなくなった。
後ろの女も既に戦う力はない。
あとは自分の剣がこの二人を屠るだけ。
その時、シノンの身体がぐらりと揺れ、跪いた。
過度の出血により貧血状態に陥ったのか。もとよりあの出血でこれまでもっていた方がおかしいのだ。
「いい腕前だったが、これで終いだ。たわいもない」
ずいと近づき、男は剣が振り上げ、一気に振り落とした。
シン、と辺りが静まり返る。
その時、男はどうしようもない違和感に苛まれた。
何が起きた。
いや、起きていない。何も起きていないのだ。
刃はシノンに届いていない。
しかも、そのシノンがいなかった。
自分の視界にあるのは、蒼白な顔で毒に耐え、うつぶせで倒れる女。
うつぶせ?
女は確か、仰向けに横たわっていたはず。
それが今は、うつぶせに、右手に一本の槍を持って倒れている。
目の前の光景の意味を理解できないながらも、男の視界がゆるゆると辺りを見回す。
やがて男の視界がシノンを捕らえた。
シノンはネフェニーの背後に周り、弓を構えていた。
あの弓はなんだ? それに一体どこから。
その疑問もだが、この状況に別の感情が男に宿った。
女を盾にする気だと知った男の、騎士道精神に火がついた。
「恥を知れ!!」
男の吼える声と共に、シノンの矢が放たれる。
怒りと共に刃がその矢を薙ぎ払った。
これで完全に終わりだ。もう次の動作をする余裕もあるまい。
瞬間、ドス、という音が身体全体に響き渡る。
男は信じられない思いで目を見開いた。
馬鹿な。馬鹿な。矢は先ほど防いだ。絶対に防いだはずだ。
ならばなぜ、その矢が自分の心臓を貫いている。
死に包まれる視界の中で、男はシノンの手にある弓を見つめた。
あれは確か、二連撃を可能にする弓だったか。だが今の今まであんな弓は持っていなかったはずだ。
隠し持つなど不可能だ。ならばどこに持っていた。
男は血を吐き出し始めた。
揺れる視界とこみ上げる吐血を必死で押さえながら、男はネフェニーを見る。
こいつだ。こいつを最初に下ろした時に身体で隠し、そして跪いたと同時に持ち直したのだ。
「・・今までのは・・油断・・させる・・ためか」
血走った形相の男に、シノンはつとめて正直に答えた。
「別に。あと残り二射しか残ってなかったんだよ」
たった、たったその一瞬の為だけに、この弓兵は他の弓で油断させていたのか。
壊れた弓矢を下ろし、シノンは男に笑いかけた。
「ま、奥の手は最後に見せるもんだろ?」
――ふざけるな。若造――
怒鳴り散らしてやりたかったが、その力も、すでに男には残されていなかった。
うつぶせに倒れるネフェニーを、慎重に仰向けにさせながら、シノンは呟いた。
「余計なことしやがって・・・」
ネフェニーが握っている槍は、重歩兵に対抗する貫きの槍だった。
あのジェネラルに向かって放とうとしたのだが、途中で力尽きたのだろう。
こんな状態になっても、彼女は戦う意志を捨てなかった。
まあその根性は認めてやるよ。
でも、それで死んじゃあ台無しだ。
もう動かしてはいけない。
弛緩するネフェニーの身体を静かに寝かせ、いまだ止まらぬ出血など構わず、シノンはその場を離れる。
「シノン・・さん」
後ろからネフェニーの呼ぶ声がする。うわごとのように弱い声だったが、シノンは振り返らず、歩き続けた。
林を抜け、霞む視界の中、限界まで息を吸い、そして全てを吐き出すように叫んだ。
「ミスト!」
視界の端に捉えたのは、こちらに駆けて来る栗色の髪の少女。
ミストはシノンの出血に青ざめながらも、杖に力を込めながらシノンに近づいた。
だがシノンはそんな彼女の行動を制した。
「俺じゃねえ!」
「え・・?」
疑問の表情に構わず、シノンは後ろを指差す。
「あいつが先だ! 毒もくらってんだよ」
「で・・でも・・シノンだって」
「いいから行け!!」
しかしどう見ても、シノンも重症に等しい。果たして彼女を回復するまでもつかどうか。
だがシノンを回復している間に、毒は容赦なく彼女を蝕む。
どっちを先にすればいい。シノンか。ネフェニーか。
「・・・頼む」
静かに、力をなくしたシノンの言葉に、ミストは一瞬で決意した。
「絶対に・・・待っててよ!」
そしてミストは駆けた。
彼が全てを託したネフェニーに向かって。
ぼやける視界の中でミストの姿が見えたとき、ネフェニーは心から安心した。
ああ良かった。これでシノンさんは助かる。
だがその安心も、ミストの行動に覆された。
彼女がこちらに向かってくる。
あの一瞬であれだけの傷を治せるはずはない。
シノンは自分を優先させたのだ。
――そんな・・・――
その間に、果たしてシノンの身体はもつのか。
痛む身体をむりやり起こそうとするも、既に力も入らなかった。
ミストが駆け寄り、まず杖をかざす。
その手が震えていることに、だがネフェニーは気付けなかった。
「・・シノン・・さん・・を」
お願いだから。私はいいから。
「シ・・ノン・・さん」
早く。お願い。助けて。あの人を。早く。早く。早く。
視界の先に、シノンが見える。
表情までは判らないが、こちらを見ているのは判った。
自分がちゃんと治されるのかを見守っているのだろう。
その姿が、地面に崩れ落ちる。
涙がこぼれる前に、ネフェニーの意識がついに途絶えた。
ミストの脳裏に最悪な結果がよぎったが、気を失っているだけだと信じ、ひたすら回復をし続けた。
やがてネフェニーの顔に血の気が戻り、傷もほぼ治りかけたことを確認し、ミストはひとまず治療を中断させた。
そして急いで倒れるシノンに駆け寄り、彼の状態を看た。
「・・・・シノン・・・」
気絶しているだけ。そうよ。そうに違いない。
大丈夫。大丈夫。息だってすぐにしてくれる。
こぼれる涙をそのままに、ミストは杖に力を込めた。
ぱきり。
その時、杖に添えられた宝玉が、軽く音を立てて崩れ去る。
急な増援による乱戦に回復回数が響いたのか、杖の耐久に限界がきていることに、ミストは気付けなかったのだ。
握られた杖が機能できなくなったことに、ミストはすぐに理解できなかった。
「うそ・・・やだ・・待って・・そんな!」
もう意味の無い行為だと頭で判っていても、ミストは杖に力を込め続けた。
「待ってよ! やだよ!! 待っててって言ったじゃない・・・!!」
なんでよりにもよってこんな時に。
壊れた杖を震えるほど握り締め、ミストは己の無力さを嘆いた。
その杖が、するりと自分の手から外されたのはその時だった。
「・・・・・・・・?」
顔を上げると、信じられない光景を目の当たりにした。
「・・セ・・ネリオ」
「二人同時なら、まだ間に合うかもしれません」
そして、真新しい杖をミストに差出し、自分は随分ぞんざいな仕草で杖を振るう。
慌ててミストも彼に習い、再度、癒しの力をシノンに注ぐ。
ほんのわずかだが、彼の顔に再び生気が宿ってきたのを、ミストは確信した。
「シノン! 良かったあ・・・」
全身で安堵のため息をつくミストに、セネリオはぴしゃりと言い放つ。
「安心するのはまだ早いですよ。するならちゃんと治してからにして下さい」
「あ、う、うん。ごめん・・・」
二人がかりでの治療が功を奏したのか、シノンはとりあえず、一命をとりとめた。
それを確認し、セネリオは杖を戻しながら、いつも自分を見下ろすシノンを逆に見下ろし、やがてふんと顔を背ける。
「世話の焼ける」
「セネリオ!」
声をかけるミストに、セネリオはちらりと一瞥し、「これっきりですよ」と立ち去っていった。
「ありがとう! セネリオ」
その背中に、ミストは精一杯の感謝を捧げた。
良かった・・。最悪な事態は避けられた。
青白かったシノンの顔に、ようやく赤みが差したのを見届けてから、ミストはもう一度、ネフェニーの再治療に向かった。