『境』4

 

 身体が揺れるのを、ネフェニーは濁る意識の端でようやく感じた。

 急に足から力が抜け、膝をつくも、ネフェニーは必死に立ち上がろうとする。

 

 こんな所で、倒れるわけにはいかない。

 

 朦朧とする視界の中で、両のふとももが、いつの間にか、後ろから深く切り込まれているのを知った。

 この時初めて、すでに痛みすら感じることも出来なくなっていたことに気がついた。

 

――まだ・・いた・・――

 

 力の限り前に進み、崩れるように倒れこむ。

 雨にぬかるむ地面が、ばしゃりと音を立てた。

 水溜りの中に、自分の血と返り血が広がっていく。

 後ろからの足音が近づいてくる。だがもはやこの足では、逃げることはおろか、もう動くことすら敵わなかった。

 

 まだ、死ぬわけにはいかない。

 

 うつぶせに倒れる自分のうなじに、冷たいものが触れていた。

 

 

 帰りたい。

 

 

 全ての意識が途絶える前に、ただそれだけを、ネフェニーは願った。

 だが次の瞬間、何かが倒れる音を耳にしたと同時に、ネフェニーは思わぬ感触から意識を取り戻した。

 視界が反転し、目の前にシノンの顔が現れたのだ。

 

「ネフェニー!」

 

「・・・シ・・ノン・・さ」

 どうしてここにシノンさんが。どうしてこんな心配そうな顔をして、私を見ているのだろう。

 

 混濁する意識は記憶をかく乱させ、ネフェニーは自分が死に掛けている現状を忘れていた。

 痙攣するネフェニーの眼球を見て、シノンは彼女の現状を把握した。

 かなり最悪な状態だ。

 

「しっかりしろ! まだくたばるんじゃねえぞ」

 シノンは怒声に近い声を掛けながら、手元にある傷薬で簡単な応急処置をする。

 傷が深すぎて完全には回復できないまでも、ひとまずこれでしばらくは持つだろう。

 

「毒までくらってやがるのかよ」

 あいにく毒消しは所持していない。更に最悪だと思いながらもシノンは辺りをくまなく探した。

 キルロイかミストか、どちらでもいい。早く探し出さないと。

 

「シノンさん・・・」

「喋るんじゃねえ。無駄に体力使うな」

「シノン・・さん・・・」

 シノンの叱責に、だがネフェニーの動作は止まることはなかった。

 

 血塗られ震える手で、ネフェニーはシノンの胸元に触れた。

 ぽろぽろと涙を流しながら、必死でシノンに触れた。

 だがそれは、助かったという嬉しさではなく、最期に会えて良かったという、絶望的な喜びでしかないとシノンは悟った。

 

「シノンさん・・・シノンさん」

 

 血に染まり、毒をくらい、傷だらけになりながらも、自分の名を呼び続けるネフェニーに、シノンは言葉を失う。

 傷を避けるように、シノンはネフェニーを抱きしめた。

 そのあまりの優しい温もりに、ネフェニーの涙が更に増した。

 

「悪かった」

 

 それだけ言って、ネフェニーを抱き上げ、走り出す。

 あの二人はどこにいる。せめてこの毒だけでも早く取り除かないと。

 逸る気持ちを抑えつつ、雨にけぶる視界を、シノンは細心の注意を払って見回した。

 そして、見つけてしまった。

 自分に向かってくる一体のジェネラルを。

 

「ふざけるなよ・・・」

 最悪など、軽々しく使う言葉じゃないなと、シノンは頭の隅でそう確信した。

 

 

 

 傷は完全にふさがっていない以上、雨に晒す訳にもいかない。

 そして相手から距離を取る為にも、シノンは一旦林に戻り、ネフェニーを寝かせる。

 また増援がこないとも限らないが、彼女を抱えたままでは戦えない。

 

「シノンさん・・・」

 止血のせいか、少し顔色が良くなったネフェニーが、離れるシノンの袖をとっさに掴んだ。

 

「黙って寝てろ」

「でも・・シノン・・さんも・・・ケガ」

 ああ、とシノンは自分の脇腹を見た。

 ここに来る途中、多少無茶な進み方をしたせいか、不覚にも傷を追ってしまったのだ。

 

「瀕死のくせに良くみてやがるな。

 少なくともお前よりはるかにましだ。だからそこにいろ。絶対に動くんじゃねえぞ」

 

 半ば押し倒すようにネフェニーを寝かせ、シノンは後ろを振り向き敵に向かう。

 そして、まずは長弓を構えた。

 弦を弾く、乾いた音がこだまする。

 何度も。何度も。何度も。

 

 

 

 鎧のつなぎ目や露出した部分に正確に迫る矢に、ジェネラルの男は驚愕した。

 シノンの腕もかなりのものだが、男のさばく剣が、迫る矢を一掃する。

 力の優劣は男に分があった。

 手負いの人間を庇う、しかも弓兵ならば、すぐさま瞬殺できただろう。

 だが男は絶対の余裕を持ってシノンに迫った。

 しょせん弓矢に遅れは取らない。

 

 その時、遠くの方から鬨の声に似たものが聞こえた。

 男は砦の方角に向かい、視線だけを送った。

 

「敗れたか。我が将よ」

 

 それは、制圧を成し遂げた喝采だった。

 男は静かに、現実を受け止めていた。

 

「ならもう、止めるか?」

 矢を構え、無駄だと判りつつも、シノンは問う。

 男は剣の切っ先をシノンに向けた。

 

「投降し捕虜となるぐらいなら。

 一人でも多く道連れにするまで」

 

 だろうな、とシノンは無意識に笑った。

「敗者の大儀なんざ、知ったこっちゃねえよ」

 

 この男なら、すぐさま自分たちを殺れるだろう。

 だがもちろん、こちらも簡単に殺られる気はない。

 

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