『氷解』2
「おや、ヨファか」
「こんにちは! チャップさん。ネフェニーさん」
駆け寄ってきたヨファの頭を、チャップと呼ばれた男性は、その大きな肉厚のある掌で優しく撫でる。
その横でネフェニーがこくんと首だけを傾けた。
ヨファが子ども扱いされて、嫌がらないのは初めて見た。
まあこんな邪気も嫌味もない純朴な人間の言葉なら、素直に受け入れられるのだろう。
その純朴な中年が、ゆるりとシノンに顔を向けた。
「後ろの人ぁ、この前入ってきた人じゃのぉ」
「シノンさんて言うんだよ」
「そうか。初めまして。わしゃあチャップじゃ」
「・・シノンだ」
一応挨拶をする約束をした以上、形だけでもしておくことにした。
「いやあ、それにしても強そうじゃのぉ。兄さん」
「うん。弓が得意で、すっごく強いんだよ。」
「そうかそうか。ここは強い人がおゆぅてのお。
わしのような民兵じゃ、せいぜいみんなの足手まといにならんようにせんとの」
「そんなコトないよ。チャップさんはみんなの盾になって、みんなを護ってくれてるじゃない」
「おお、ありがとうな。ちぃたぁわしも役に立っとるんかねぇ」
二人の会話は暫く続いた。
その間に、シノンは頭を抱えたくなった。
このほのぼのとした会話がどうにも自分の気質に合わず、今すぐにでも立ち去りたくて仕方が無かったのだ。
そんな時、ようやくもう一人の人間に気がついた。
二人の和やかな会話をぼんやりと眺めている女性。
華奢な身体を覆うように作られた青銅色の鎧に身を包み、外見だけなら立派な兵士に見れる。
だが見る人が見れば、外見と中身の差が歴然としているのは明らかだった。
こいつもこのおっさんと同じ民兵か。
確か・・ネフェニーだったか。
とりあえずこいつにも名前を言って、さっさと帰らせてもらうか。
こっそり帰ればいいものを、何故か律儀にシノンはヨファの言葉に従っていた。
「おい」
瞬間、びくりと彼女は肩を震わせる。
そのまま暫く俯いていたが、やがて恐る恐るこちらに顔を向ける。
顔半分を隠している兜のせいか、その表情はいまいち判らない。
真一文字に固く結ばれた小さな口元が、ゆっくりと開いたのはそれから一分くらい経った頃だった。
「・・・・・・・は、はい」
その声はあまりにもか細く、シノンの耳には口元が微かに動いたことしか判らない。
だがシノンは気にも留めず、己に課せられた義務だけを果たすことに専念した。
「あんた、ネフェニーとか言うんだろ」
「は・・い」
まさに必要最低限しかない返答に、シノンの心が徐々に変貌していく。
「あんたな」
「・・・?」
「人と話すときは、相手の目を見るモンだろうが」
突然自分の対応を注意され、ネフェニーにはますます萎縮していった。
「あ・・す・・すみません・・」
「それと戦場でもないのに、そんな重っ苦しいモン被ってんじゃねーよ。
見てると気が滅入るんだよ」
「・・すみません」
「判ったらさっさとその兜を取って、ちゃんと顔ぐらい見せろ」
「・・・・・・・・・・」
ついに反応すら無くなってしまった。
だがそんな態度も、シノンの感情を別の意味で刺激してしまうこととなる。
「大体もっとはっきり喋れよ。聞こえねえよあんたの声」
「シノンさん!」
突然ヨファが二人の間に割って入り、諌めるようにようにシノンを睨んだ。
「そんな言い方止めてよ」
「ああ? 当たり前のこと言ってるだけだろ。
そんな声、戦場じゃ役にも立たねえぞ」
負傷した際に助けを呼ぶ、仲間の窮地を教える、仲間への鼓舞、等々、声量も戦場ではとても大切なものだ。
「でもそんな言い方しなくていいじゃないか。シノンさんの意地悪!」
珍しくはむかうヨファを、シノンは面白そうに見下した。
「俺は意地悪なんだよ。今更なに言ってやがる」
「・・あの!」
二人の言い争いが、突如上がったネフェニーの声によって中断された。
「あ・・・の、ヨファくん。私が、悪いの・・。だから」
「だからもうちょっとはっきり喋れ」
「シノンさん!!」
「あぁあぁ、判ってるよ。どうせ言葉が訛って恥ずかしいんだろ?」
確信をつかれ、ネフェニーは再度硬直してしまった。
「図星だろ。だからはっきり喋らねえんだな」
黙して語らぬネフェニーに近づき、少し屈んでシノンは彼女の顔を覗き見た。
それでもやはり顔の全貌までは判らなかったが、羞恥のせいか憤怒のせいか、その頬は少し赤みを帯びているのが見てとれた。
「あのなあ、シノンさんとやら」
さすがにこれはマズいと思ったのか、チャップがまったを掛けた。
「わしんような年寄りならいいが、ネフェニーんような若者は気になってしまうもんなんじゃ。許しちゃってくれんか?」
「歳は関係ねえよ」
チャップに視線だけを向け、シノンは一蹴する。
その一瞬だけの視線に、チャップは少し気になるものを感じた。
「そんなに恥ずかしいか?」
視線をネフェニーに戻し、シノンは語りかける。
下からヨファの射るような目つきを感じるが、気にしないことにした。
時間を置いてやっとネフェニーが頷く。
それは彼の声が先ほどの棘のような口調とは打って変わって、とても静かなものだと気付いたからだろう。
とりあえず、彼女はまだ聞く耳を持ってくれそうだ。
「笑われた、から」
震える声で、ネフェニーはそう言った。それで過去の記憶が甦ったのか、唇をきゅっとかみ締めた。
「は、恥ずかしくて・・・」
苦しげに言葉を紡ぐネフェニーに、ヨファは彼女の震える手を握り締めた。
「じゃあ、あんたは自分の国も恥ずかしいのか」
あまりに予想外な言葉に、ネフェニーは思わず顔を上げる。
その先には、自分を冷ややかに見下ろすシノンの鋭い目つきがあった。
「あんたの言葉は、あんたの国の言葉の一つだろ?
それを恥と思うってことは、あんたは自分も、家族も、村も、街も、国も恥ずかしいって言ってるようなもんだろうが」
「そ・・っ、そんなこ・・と」
「違うか? 生まれ馴染んだものを笑われて馬鹿にされて、腹が立つ前に恥ずかしいと思ったんだろう。
つまり同じ馴染みのある、家族や同郷や国まで恥ずかしいと思ったってことじゃねえか。
そんな奴が国を救うために戦うだ? 何が志願兵だ。ふざけんな」
ネフェニーの全身が震えていくのを確認してから、シノンは最後に言い放った。
「何でそこまで言われるんだって顔だな。
あんたのその卑屈な態度がムカつくんだよ。
田舎モンだからなんだ。俺だって平民出身だ。ここいらにいる御貴族様達から見れば、俺たちに特に違いなんてねえよ。
だがあんたみたいに全てを恥だと思ったこともねえから、俺の方がまだマシかもな。
悔しいか? 悔しかったらこのおっさんみたいに堂々と喋ってみろよ。その方がよっぽど見ていて気持ちがいいぜ」
言い終えてシノンはヨファに視線を移した。
「じゃあ俺はもう行くぜ。文句はないな」
「え・・・あ・・・」
弟子の返答をまたず、シノンは踵を返して立ち去って行った。
「あの・・ネフェニーさん」
呆然と立ち尽くすネフェニーに、ヨファは恐々と言葉を掛ける。
だがネフェニーからは何の返答もなかった。
だが次の瞬間、思わぬ彼女の行動に、今度はヨファと、そしてチャップまでもが、立ち尽くしてしまうのだった。