『聴』

 

 小さなさえずりが震わす振動が心地よい。

 負の響きに満ちた場で、阿鼻叫喚の騒乱に浸された耳には、尚更その心地よさは有り難い物だった。

 戦いのない時、ウルキはよくこうして、鳥のさえずりと小動物のささやきを聴いていた。

 しかし、その全てに癒されながらも、ウルキの耳が警戒を解くことはない。

 この身が朽ち果てるまで、決して。

 

 そして順風耳は、その『音』を瞬時に拾い出した。

 

 

 その日は心地よい風も吹いていた。

 風は緑輝く草木に満ち溢れたその森を、まるで波のように揺らしていた。

 そしてついでに、その中でうつぶせる淡い紫の髪も揺らしていた。

 

 さわさわ、さわさわ。風は優しく揺らしている。

 今、どれほど危険な状態であろうとも、風は容赦なく優しかった。

 

 その無情の風とはまた別の、一陣の鋭い風が、少女の髪を大きく仰ぐ。

 風は少女を包み、続いて風を起こした主が傍に降り立った。

 自分が近づいてもぴくりとも動かず、草原にうつぶせる少女を、ウルキは暫く見つめ続けた。

 そして耳はまた、その『音』を拾った。

 

――この音だったのか――

 

 謎が解けたウルキは、早々に少女を片手で担ぎ上げ、また風に乗っていった。

 

 

 

 後ろからの視線を、手早い動作で気を紛らわせながら、ルキノは料理の下ごしらえを続けた。

 続けながら、ルキノは改めて己の失敗を悔やんだ。

 

 手伝おうかと言われたが、自分の仕事ですからと、先に釘を刺しておいたのがそもそもの失敗だったのだ。

 これならまだ一緒に何かをしていた方がマシだ。

 しかし今更、やはり手伝ってほしいなどと、言えるはずも無い。

 更に言えば、この人はきっとそれを待っているに違いない。

 だからあっさりと引き下がり、代わりに自分の後ろに控えたのだ。

 観念して、ルキノは聞こえないようにため息をつき、そっと後ろを振り返った。

 

「そこにいて退屈ではないのですか? ヤナフ殿」

 

 振り向く動作で、彼女の艶やかな髪が揺れる。

 ルキノの背中から腰にかけての麗しい線を楽しんでいたヤナフは、相変わらず掴めない笑みで片手を振った。

 

「退屈どころから、楽しくて仕方ないさ。

 でもあんたが見られるのが嫌ってんなら、今すぐにでも止めるけど」

 

 そんな失礼なこと、間違ってもルキノが言うはずがないと確信しての言葉だった。

 笑みを絶やさず、ルキノは続ける。

 

「退屈でなければ構わないのですが」

「気が散るってんなら、やっぱりおれも手伝おうかい?」

 言って、ひょいと立ち上がる。決して出て行く気はないようだ。

 

 自分の隣りに立つヤナフを、視界の端で目に留めながら、ルキノは改めてその姿を観察した。

 ラグズの鳥翼族、タカの民の一族。自分とは異なる種族。

 その一番の違いは、普段は隠されている背中の羽だ。

 鳥翼族は巨大な翼を持ち、大空を自由に駆け回ることができる。

 その羽に見合う巨大な鷹にその身を変え、戦場を飛び回る勇猛な姿。

 ルキノはこれまでの戦で何度となく見続け、そして素晴らしさに目を奪われた。

 そのことを口にする度に、ヤナフはとてもご機嫌になる。

 

 ふと、その時の笑みをルキノは思い出した。

 その笑みは、無邪気な少年そのものだった。

 ヤナフは一見、少年のように見えるが、実年齢は100を超えている。

 ベオグと年月の数え方が違うのではない。彼は確かに100の時を過ごしているのだ。

 それにも心底驚いたが、あの笑みを見ていると、それも少し納得がいった。

 少年のような無邪気な笑顔の中に、深遠の思想を感じるのだ。

 これは50や80の歳月で、出せるものではない。

 

 それだけではないのだが、ルキノは彼と話すとき、常に敬意を持って接していた。

 話せば気さくな人柄だと判ってはいるものの、ルキノは今でも、ヤナフと一歩距離を置いている。

 敬意の意味もあるのだが、むしろそれよりは。

 

「いやあ、いい女は大変だねえ。料理も出来なきゃいけないのかい?」

 

 突然のヤナフの質問に、ルキノは素早く思考を中断させた。

「いえ別に・・。料理は元から好きでしたので」

「じゃあ戦いは?」
「――好きといえば嘘になりますが、嫌いとは言えぬ立場ですので」

「じゃあやっぱり大変だ。

 そんな大変なあんたには、やっぱりおれが直々にお手伝いをしてやろう」

「はあ・・ありがとう、ございます」

 よく判らない理論だが、ルキノは礼を言った。何はともあれ、彼は親切で言ってくれているのだ。

 

 そう、親切として受け取るのならよい。

 これは単なる親切だ。それ以外の何物でもない。

 ルキノは何度も何度も念を入れた。

 

「それでは、申し訳ありませんがそれを・・・」

 言って、細くしなやかな指が食材の一つを指差そうとしたその時、厨房の扉が軽く叩かれる。

 返事を待たず、その扉が開かれると共に、ルキノよりもまずヤナフが目を見開いた。

 

「ウ・・」

 

 入ってきたのは自分の相棒だった。

 だがそれだけで、ヤナフの目が見開かれる原因にはならない。

 原因は、小脇に抱えているものだった。

 一方ウルキは、ヤナフの姿を一瞥しただけで、その視線をルキノに移す。

 だが、小脇にぐったりと弛緩している少女を抱えるウルキの姿に、ルキノは完全に言葉を失っていた。

 

「無礼を承知だが、何か食べ物を少し分けてもらえないだろうか」

 特に急くわけでもなく冷静に用件のみを伝えるウルキ。

 反応が無いのを訝しりながらも、勝手に食材を持って行くわけにはいかない。ウルキは待った。

 やがて最初に反応したのは、ヤナフだった。

 

「どっ、どっから誘拐してきたウルキ!」

 見ようによっては見えないこともない。

 

「違う。どうすればそういう結論に達するんだ」

「消去法」

「早すぎだ。消去する選択肢が少なすぎる」

「@救助・A保護・B誘拐」

「随分温度差のある選択肢だな。そして何故お前はあえてBを選ぶ」

「イレース!」

 

 二人の鳥翼族の掛け合いをよそに、気を取り直したルキノはぐったりとしている少女の正体に気付き、駆け寄った。

 

「どうしたの? また行き倒れたの!?」

 必死の形相でルキノはイレースの手を握り締めた。

「イレース。イレース! しっかりして」

「あ・・ル・・キノ・・さん」

 ウルキの小脇で抱えられたイレースは、弱々しくそう呟いた。

 

「わたし・・も・・ダメです」

「なに言ってるの! しっかりしなきゃダメよ」

「おなか・・すきすぎて・・も・・」

 

 がくり。

 

 イレースの頭が揺れ堕ちる。

「イレース!」

 叫びながらもすぐさま果物のつまった籠を手に取り、ルキノはその一つを手に取り、イレースの口元に近づける。

「ほら! 果物よ。

 だから口をあけて。イレース」

 

 しゃり。

 

 目を閉じたままのイレースの口が、迷い無く俊敏に動く。

 

 しゃりしゃりしゃりしゃりしゃりしゃりしゃりしゃりしゃりしゃりしゃりしゃりばきぼきごくん。

 

 がくり。

 

『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』

 再び崩れ落ちるイレースの頭を見つめる三人の間に、重い沈黙が広がる。

 その沈黙を破ったのは、ルキノの声だった。

 

「ダメよイレース。芯まで食べちゃ!」

「そこかよ!」

 

 突っ込むルキノに、思わず更に突っ込むヤナフ。 

 だがとりあえず、大事ではないようだ。

 深刻なイレースの表情とは裏腹に、ウルキが妙に冷静な訳がようやく判った。

 気を取り直して、ヤナフが一口サイズの木の実を手に取り、イレースの口元に近づける。

 

 ぱくり。

 

 食べ物の気配を感じ取ったのか。イレースの小さな口がすばやく木の実を奪い取った。

 もう一度差し出す。

 ぱくり。

 もう一度。

 ぱくり。

 

「うわー。おれ、寝ながら物食う奴って初めて見たよ」

「――ならばお前も気絶して出来るかどうか、私が直々に確かめてやろうか?」

 みれば相棒の目つきが普段よりも数十倍鋭い。

 面白半分にしているのが、どうやら気に食わなかったらしい。

 ごめん悪い冗談だってこの通り、と平謝りしながら、ヤナフは椅子を引っ張り、イレースの席を作った。

 

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