すれ違い4
瞬間、ビーデルは右の耳元に違和感を感じた。
半ば無意識か、それとも危険を感じ取った防衛本能か、いつの間にか顔を思いっきり左に反らしていた。
圧縮された空気が、細く鋭く彼女の耳元を通り過ぎる。
真横を通り過ぎている18号の拳は、ビーデルの耳元の気圧すら変化させるほどの鋭さがあった。
避けるだけで、ビーデルはその場から動けなかった。
これまでの悟飯と相対していたやりとりを軽く一蹴してしまうほど、18号の一撃に容赦はない。
「おや、よく避けたね」
あまりにも軽く言われたその声にやっと我に返ったビーデルは、気を引き締めるように歯を食いしばった。
今の攻撃は、避けなければどうなっていたのだろうか。
その先のことはあまり考えたくも無かったため、再度ビーデルの拳が唸った。
かわしながら、18号は逆に身体を近づけてきた。
これではかわせようも無いが、あまりに近すぎる為攻撃に勢いがのらず、結果、自分の力は殺されたことになる。
だが今の勝敗の条件は、18号に攻撃を当てるかによるのだ。攻撃の威力は関係ない。
右肘を天に向かって突きたてる。顔を逸らして避ける18号の身体は、その動作により仰け反る形になった。
その機会を逃さずに、ビーデルは彼女の腹に正拳突きを叩き込もうとした。
18号の姿がまた消える。
いや、ビーデルの目はその姿を今度こそ捉えていた。18号はいま真上にいる。
自分の背丈よりも高く、彼女は飛び上がっていた。
舞空術ではない。彼女自身の脚力によるものだ。
だが空中では地上よりも避ける動作は難しい。
宙に浮かんだ状態では、これから更に上か、あるいは下に逃げるのは不可能だ。
ビーデルはかかと落としの要領で、右足を高々と上げながら飛んだ。
下から上に向けられたつま先は、確実に18号に届くはずだった。
だが次の瞬間、足が一瞬にして曲げられ、身体がくるりと後ろに回転する。わずかな差でビーデルの足は空を蹴った。
とん、と二人同時に床に下り立ち、再び二人の間に間合いが取られる。
少し上がった息を整えようと、ビーデルは暫く深呼吸を繰り返した。
ビーデルは改めて、彼女の戦いを見ていなかったことを悔いた。
相手は自分の技量をある程度把握していると言った。だが自分は彼女の実力を全く知らない。
あの大会を見ていた人たちに聞いても、所詮は他人の感想だ。自分が見ていなければ何もならない。
こんなものじゃない。
彼女もやはり、自分とは次元の違う強さを持っている。
悟飯のように。
「五分」
小さいが、よく通る声が耳に届く。
次の瞬間、肺が圧迫されるような感覚に陥った。
続いて熱を持った痛みが全身を襲う。
一瞬で間合いに入った18号の蹴りが、ビーデルの脇腹に食い込んでいたのだ。
「蹴りってのはこうやるもんだよ」
空気の塊を吐き出すように、かはっと呻きながら、それでもビーデルは足を踏ん張って崩れ落ちるのを防いだ。
五分。彼女はどうやってその時間を確認しているのだろうか。
再度後退し、間合いを取りながら、腹の痛みが鎮まるのを待つ。
なかなか治まらない痛みに、視界が少し歪んでいった。
そして時は過ぎていく。
五分経つ。
ビーデルは18号の顔をじっと見つめた。
視線がちらりと動く。
その先にあるのは、部屋に設置された時計。
彼女は五分毎に時間を確認していたのだ。
「五分」
いつの間にか、目の前に18号の端正な顔が迫っていた。
慌てて真横に避けるも、脇腹の痛みに反応が鈍る。
18号の拳を避けそこなった右腕に、ぢりっと焼けるような痛みが走った。
痛みを感じながら、ビーデルの中で何かが燃え上がった。
――なら、時間を確認できなくなるくらい、攻撃してやる――
ビーデルは肺の限界ギリギリまで大きく息を吸い、そしてぴたりと止まった。
刹那の瞬間にビーデルの繰り出す連撃が、次々と18号を襲った。
それは全てギリギリでかわされている。だがそれでいいのだ。
もはやビーデルの目的はすでに攻撃を当てるものではなく、彼女の余裕を失くすことに一貫していた。
五分過ぎても彼女が攻撃しなければ、それだけでビーデルは満足だった。
繰り出される攻撃の境に、18号の視線が泳ぐのをビーデルは見逃さなかった。
彼女の視線から確実に死角となる角度から、ビーデルは渾身の一撃を放つ。
18号は視線を戻さなかった。
逸らした視線をそのままに、ビーデルの攻撃をゆっくりとした動作でかわしていく。
――そんなっ!?――
絶対の自信を持った攻撃すら難なくかわされ、ビーデルは思わず愕然とする。
それが18号の攻撃を無防備に受ける破目となった。
視界は一瞬にして暗転していった。
「本当に強いんですね・・・」
ビーデルは壁に寄りかかりながら、痛む箇所に氷を当てていた。
戦いを始める前と全く変わらず涼しい顔の18号は、同じく隣りで壁に寄りかかっていた。
「あんたもなかなかのもんだったよ。だけど攻撃の仕方がちょっと未熟だね。
悟飯はそういった所は指摘しなかったのかい?」
少し意味深に訊ねてみると、ビーデルの顔がみるみる歪んでいった。
「悟飯くんは関係ありません」
「関係あるよ。あいつがどうやってあんたを鍛えたのか、それによって教えることも違ってくるだろ」
「悟飯くんから習ったのは、気の扱い方とか舞空術とか、そんなものしかありません。
型とかはこのままで、後は組み手をしていただけです」
言った後少し顔が俯いた。
「さっきみたいに、私が一方的に攻撃するみたいな、そんな組み手しか、したことありませんでしたけど」
そうだ。そもそもあんなのは組み手とは言わない。
実際、自分が彼の攻撃を受けたことは一度も無かった。
「ふうん。まあそうだろうねえ。
あんたぐらいのレベルの人間なんて、相手にしたこともなかっただろうに」
何気ないその言葉は、だが思った以上にビーデルの心を深く傷つけたようだ。
彼女の顔から表情が消えた。
だが18号はあえて様子をみていた。
しんと静まり返る部屋が、痛いほどの沈黙に満たされた頃、
「・・・・・・・。
やっぱり、悟飯くんの世界と私の世界は違うんですね」
半ば独り言のようなその声は、沈黙の世界に容赦なく響き渡った。
「は?」
「貴女とも、やっぱり違う。今ので充分判りました」
「・・・・・・・・たった一日で弱音かい?」
返事は帰ってこない。
18号はビーデルの前に回りこみ、身体を屈めてビーデルを見下ろした。
「それとも、試したのか?」
ゆるゆるとビーデルは顔を上げた。
自分とは違って、18号の顔は少し優しかった。
「確かに悟飯とあんたの力なんて比べる方が馬鹿らしいけどね。
それとも何? あんたはあいつくらい強くなりたいのかい?」
「私は・・・」
さきほどと同じように、ビーデルの顔が俯いていった。
「私はただ、悟飯くんと普通に接したかっただけです」
それっきり、ビーデルは一言もしゃべらなくなった。