『顔』

 

「ちょっと。ちょっとあんた」

 

 少し甲高い女性の声が、晴れ渡る空の下に響く。

 だが呼ばれているのが自分とは露にも思わないネフェニーは、声を耳にしても足取りを緩めない。

 そもそも知らない人の声だ。自分が知らない人間が、自分を呼ぶとは考えもしなかった。

 

「ちょっと! 無視するんじゃないよ!」

 

 その声と共に、後ろからずかずかと足音がしたかと思うと、ぐいと片腕を引っ張られる。
 驚き、思わず振り返ると、そこにはまばゆい金の髪を結わえた女性の、怒り顔が自分を睨みつけていた。

 

「え・・え? わ・・わた・・し?」

「あんたしかいないじゃないのさ。あたしの声が聞こえなかったのかい」

「私とは・・その・・思わなかったので・・・。す、すみません」

 深々と頭を下げるネフェニーに、金の髪の女は腰に手を当てた。

 

「ふうん。まあそれはもういいよ。あ、あたしはカリルって言うんだけど。

 最近こちらに入ったモンでね。ちょっと挨拶がてらに廻ってるのさ」

「私は・・ネフェニーです。宜しく・・お願いします」

 

 目の前の快活な美女に、ネフェニーは完全に気圧されていた。

 堂々としている人間は、自分にはあまりにも眩すぎる。

 もじもじと挨拶をするネフェニーを見ながら、ほっそりとした顎に指を添え、カリルはこう続けた。

 

「ネフェニーかい。こちらこそ宜しく。

 ところであんた、なんだって戦場でもないのに、そんな重っ苦しいモン被ってんのさ」

「・・そ・・その」

 兜の縁を握り、ネフェニーは少しずつ後退していく。

 

「顔を見せたくないのかい?」

 カリルは少しかかんで、ネフェニーの顔をうかがおうとするも、視線から逃れようと顔をそらされる。

 その時、カリルの顔が少しかげった。

 この娘は自分よりも長くこの軍団に身を置いている。それはすなわち、出撃回数も多かったということだ。

 出撃回数が多いということは、傷も耐えなかったのだろう。

 戦場に老若男女の別はない。若い娘であっても容赦などされるわけが無い。

 その際に、顔に傷がつくこととて、充分にありえることだ。

 しかしこんな若い娘に、何て惨いことを。

 

「ごめんよ。見せたくない事情があるんだね」

 みるみる内に深刻になるカリルの顔をみて、ネフェニーは彼女が何か誤解していることを知った。

「あの・・えっと・・。事情というか。その・・・。

 ただ、見られるから・・それが恥ずかしくて」

「いいって。辛いけど無理するんじゃないよ」

「や・・違うんじゃけど・・・。いや、違うん・・ですけど・・・」

 

 埒があかないと思ったのか、おもむろに、ネフェニーは兜を外した。

 同性同士だし、この人なら変な目で見ることもないだろう。

 そろそろと下ろされた兜から現れたネフェニーの素顔に、カリルは純粋に仰天した。

 彼女はとても美しかった。

 幸い心配していた傷も一つもなく、彼女の美しさが損なわれてはいない。

 それにほっとし、安堵した次の瞬間、キッとカリルはネフェニーを睨みつけた。

 

「あんた! 何で隠してるのさ!!」

「え!? な・・何でって・・その・・・」

「そんな綺麗な顔、隠すほうが犯罪だよ。

 あたしだったら四六時中見せびらかすっていうのにさ。ああもう、憎たらしいね」

「えぇ・・・。そ、そんなコト・・言われても・・」

 カリルの豹変に、ネフェニーは完全に困りきってしまった。

 

「大体、化粧もしてないのかい。駄目だよあんた。年頃になったらちゃんとしなきゃ」

「け、化粧・・なんて・・・そんなの」

「なに言ってんの。化粧は女性の嗜みの一つだよ。

 ちゃんとお手入れしておかないと、後で後悔するのはあんたなんだよ」

 その時の、自分を更にじっと見つめるネフェニーの視線に、ぴくりとカリルは反応する。

「なんだいその視線は? もしかしてあたしの経験談だとでも思ったのかい」

 

 慌ててネフェニーは全力で首を横に振るも、すでに遅かった。

「失礼な子だね! そりゃあちょっとこの頃お肌が荒れてるけど、あんたと十も違わないんだからね。

 ああもう、むかつくむかつくむかつくむかつく! 若いからっていい気になってんじゃないよ!!

 どうせまだ若いから関係ない、ぐらいにしか思ってないんだろ。

 いいかい。これだけは忘れるんじゃないよ。若さなんてね、努力の賜物でもなんでもないんだからね!」

「は・・はい・・」

 激昂し、まくしたてるカリルに、ネフェニーはただただ頷くしか出来なかった。

 そして、今までの怒りは何だったのかといわんばかりに、カリルはにこりと笑った。

 

「じゃ、始めようか」

 

 拒否することは、許されない笑みだった。

 

 

 

『いいかい、今日一日それで過ごしてごらん。きっと考えも変わるから』

 

 半ば強制的に、ネフェニーは化粧を施され、そして寝るまで絶対に落とすなと命令されてしまった。

 化粧というのは、もっと綺麗な人がするものであって、自分には縁遠いものだとずっと思っていた。

 それを言ったら、カリルは笑いながら「化粧は全ての女性の味方だよ」と言って、嬉しそうに唇を塗らしていく。

 ここまで嬉しそうだと、せっかくしてもらった化粧を落とすのも気が引けてしまう。

 他人の親切を無碍にするわけにもいかず、ネフェニーは観念して、大人しくされるがままになった。

 

 初心者だし、まずは薄くしてあげたからと言って向けられた鏡の中に、ネフェニーは己の顔を見る。

 どこが変わったのか、実際よく見ても判らなかった。

 多少唇が赤くなったり、焼けた素肌が白粉によって白くなったりしているも、ただそれだけとしか思えない。

 しかし、自分じゃ判らなくても、他人が見れば一目瞭然なんだよ、と言い切られては、反論しようがなかった。

 そしてネフェニーは、その顔で今日一日過ごすことになったのだ。

 

 満足げに去りゆくカリルの後姿が見えなくなった頃、ネフェニーはすぐさま兜を手に取った。

――兜をつけるなたぁ、ゆわれちゃぁいないもんね――

 そそくさと被りながら、それでもネフェニーは心の中でカリルに謝った。

 

 

「お?」

 

 遠めに、見知った顔を確かめて、シノンは目を凝らした。

 ネフェニーだ。しかも何故か様子がおかしい。

 いつにもまして挙動不審な彼女に、暇つぶしも兼ねて、からかいがてら声を掛けようと、シノンは歩みを速める。

 すると、シノンの気配に気付いたのか、ネフェニーは一度こちらを振り返り。

 

 そして、一目散に逃げ去って行った。

 

「・・・・・・・っておい!」

 いきなり逃げられた。しかもこちらを確認してだ。

 明らかに避けられことに、シノンは口元を引きつらせながら、そしてにやりと不敵な笑みを浮かべた。

 

 

 

――何で何で何で! 何でこんな時にシノンさんが!!――

 

 気付くと動いていた足を、今更緩めることもできず、ネフェニーは全力で駆け続けた。

 もとから美人という自覚も無く、自信もないネフェニーにとって、化粧をした自分の顔はとてつもなく違和感があった。

 自分が変だと思ったのなら、きっと他人には尚更変に映るだろう。

 他の誰よりも、シノンにそんなことを言われたくない。

 

 それだけは絶対に嫌だった。

 

 絶対に落とすまいと兜を握り締めながら走っていた為に、通常よりネフェニーの速度は落ちていた。

 故に、シノンがネフェニーに追いつくことは、実に容易だった。

 腕を掴まれ、無理やり速度を落とされ、ネフェニーは思わず前につんのめる。

 だが掴まれた腕の力が支えになったのか、倒れずにすんだ。

 勢いが反動し、ネフェニーは後ろに立つシノンの胸に倒れこんだ。

 

「俺から逃げようなんて、甘いんだよ」

「う・・・」

 

 背中からシノンを感じ取り、上から見下ろす彼の視線から、ネフェニーは必死に顔を逸らす。

 見せたくない。絶対に変だって言われるに決まってる。

 異常に顔を隠すネフェニーに、シノンはますます訝しんだ。

 

「なに顔隠してんだよ。今更隠す必要ねえだろうが」

 初めて会った時も、彼女は素顔を見られることに恥じらいを感じていたのを思い出す。

 引っ込み思案で消極的な性格ゆえなのだが、今は少し慣れて来たのか、シノンの前で素顔を晒しても平気だったはずだ。

 しかし、今は以前のように、いや、それ以上に必死で素顔を隠している。

 

「どうしたんだよ」

「・・そ・・その」

「兜を取れ。まずはそれからだ」

「! い・・いや・・っ」

 一瞬油断したシノンの手から、ネフェニーは素早く抜け出し、距離を置いて兜を必死に守る。

 

「い・・・嫌・・絶対に・・・嫌!」

 

 顔を絶対に見られないよう、顔を俯かせ、兜を目深に被りながら、ネフェニーは首を横に振った。

 どうもおかしい。何故彼女はここまで必死に素顔を隠すのか。

 もしやと、シノンの鋭い目が細まる。

 

「お前・・・」
「!」

「顔に傷でもついたのか?」

 シノンの言葉に、ネフェニーは思わず顔を上げた。

 見るとシノンは少し気まずそうに自分を見つめていた。

 

――心配してくれている・・・?――

 

 どうやらシノンは、自分が顔を隠すのは、傷がついて見せたくないからだと思っているようだ。

 予想外のシノンの気遣いに、ネフェニーは自分の行動が申し訳なくなり、そして彼を疑ってしまったことに罪悪感を感じた。

「い・・いえ。違うんです・・・。ケガとかは・・してません」

 そうか、と呟いたシノンの言葉に含まれる優しさを感じ取り、ネフェニーは思い切って兜を脱ごうとしたその時。

 

「シノン! 何やってる!!」

 

 遠くの方から、力強く凛々しい女性の怒声が響いてきた。

「・・・げ」

 思わず出たシノンの言葉に、ネフェニーは何事かと声の方を振り向く。

 

 そこには、紅蓮の髪も美しい女性騎士、ティアマトがこちらに向かって歩いてくる姿だった。

「嫌がってるでしょう!」

「あー、悪かった悪かった。だから止めてるじゃねえか」

 

 今はとにかく彼女の怒りを抑えようと、両手を挙げてシノンは早々に降参する。

 その横で、ネフェニーが慌てて違いますと否定している。

 それで少しは怒りが収まったのか、ティアマトは姿勢を正しながら、シノンを一瞥した。

 

「まったく。ちょっと大目に見ていれば・・・。

 ネフェニーが優しいからといって、近頃の貴方は少し調子に乗り過ぎよ」

「だから悪かったって言ってるじゃねえか」

「その態度が反省していないと取られるの!

 嫌がることをしたのは確かなのでしょう。なら、ネフェニーに謝りなさい」

「・・・・・」

 

 シノンはネフェニーに改めて向き直り、悪かったなとぶっきらぼうに言った。

 それに対しネフェニーは慌てながらも「こちらこそ・・すみません」とより深々と謝った。

 なぜネフェニーが謝るのか疑問に思ったティアマトは、おもむろに彼女に近づき。

「・・・・・?」

 

 そして、気付いた。

 

「ネフェニー」

「は・・はい」

「ちょっといいかしら」

 

 言って、ティアマトはネフェニーの手を取り、シノンから少し離れた場所に移動する。

 そしてティアマトは、優しく微笑みながら、そっと囁いた。

 

「初めてのお化粧って、気恥ずかしいものよね」

「!」

 

「だからあんなに嫌がっていたの?」

「・・・・・はい」

 しゅんとうつむくネフェニーの肩を、ティアマトは軽く叩く。

「ちょっと、見せてくれる?」

 その言葉に従うように、おもむろにネフェニーは兜を外した。

 

 この位置ではシノンには判らないが、ティアマトにははっきりと見える。

 一番目を惹いたのは、形の良い小さな唇をより一層引き立てる紅色。

 もとから整った顔立ちのネフェニーの素の美しさを、全く損なわないように施されているのには感心した。

 

「とても綺麗よ。ネフェニー」

「あ・・ありが・とう・・ござい・・ます」

「本当に綺麗よ。全然変じゃないわ。

 だから大丈夫。シノンにも見せてごらんなさい」

 

 自分の危惧していたことまで悟られ、ネフェニーは恥ずかしさに顔を赤らめる。

 そして一度頷き、その足で、シノンの下にゆっくりと近づいた。

 

 自分に向かってくるネフェニーは、兜を外したままだ。

 顔を見せても大丈夫なのか、一体なんだったんだと近づくネフェニーの顔をじっと見つめ、

 そして、シノンもまた気付いた。

 なんだ。そういうことか。

 

「ごめんなさい・・・シノンさん」

「何で隠すんだよ」

「だって・・・お化粧って・・初めて・・したから・・・。

 へ・・変だと・・思って」

「ああ、変だな」

 

 いきなりの言葉に、ネフェニーの顔が一瞬の内に陰る。

 だが次の言葉で、その表情は変わった。

 

「せっかく綺麗なのに、その服装で台無しだ」

 

 指差すその先は、身につける肩当と胸当て。

「あ・・・」

「今度は服装も変えろよ。もったいねえだろ」

「あ・・あの」

「あ?」

 ネフェニーは胸の前で手を組み、そっと祈るように握り締めた。

 

「へ・・変じゃ・・ないですか・・?」

「何がだ」

「お化粧・・・」
「別に。いいんじゃねえの?」

 あっさりと言い切るシノンの言葉に、ネフェニーは全身で安堵のため息をつこうとしたが。

 

「まあ、普段もいいけどな」

 

 ぴたりと、ネフェニーの動きが止まる。

 そんな彼女の様子に気付かなかったのか、シノンはくるりと踵を返し、じゃあなと言って去っていった。

 一方、二人を温かく見つめていたティアマトだったが、いつまでも動かないネフェニーの様子が気になり、そっと近寄る。

 

「ネフェニー」

 

 ティアマトの言葉に、はっと我に返ったネフェニーは、慌ててティアマトの方を振り向いた。

「どうしたの? 何か変なこと言われた?」

「い・・い・・いえ」

 ともすれば火照る顔を隠すように、ネフェニーは首を横に振る。

 妙だったが、特に傷ついている訳ではなさそうだ。

 釈然としなかったが、それ以上ティアマトは詮索しなかった。

 

 それに、こんなに幸せそうな顔なのだから、きっと嬉しいこと言われたのだろう。

 彼も普通に褒めることもできるのだから、出し惜しみせずもっと言えばいいのに。

 シノンの去って行った方角を眺め、ティアマトは心の中でそう呟いた。

 

 

 月と星明かりの中、ネフェニーはカリルの姿を探していた。

 ちゃんと夜まで化粧を取らずにいたことを報告しておこうと思ったのだ。

 きょろきょろと宿舎内を探していると、目当ての人間はすぐに見つかった。

 それでなくとも、カリルの服装はかなり派手で目立つ。探す方としてはありがたかった。

 

「・・カリルさん」

「ん? ああ、ネフェニーじゃないか。

 ちゃんと化粧してるようだね。でもやっぱり、その兜はいただけないよ」

「す・・すみません」

「ま、それでも化粧は落とさなかっただけ、よしとしとこう。

 それで? どうだった」

 ネフェニーの顔を見れば、特に落ち込んでいる様子は見られない。カリルは遠慮なく今日の出来事を訊ねた。

 

「・・き・・綺麗って、言ってもらえました」

「そうだろう。そうだろう。あたしの見立てに間違いはないよ。

 いいもんだろ? お化粧も」

 カリルの言葉に、ネフェニーは素直に頷いた。

 

 今まで実感は湧かなかったが、やはり褒められると嬉しかったのだ。

 化粧をした顔を褒められたのも確かに嬉しかった。

 だがなにより一番嬉しかったのは、あの最後の言葉。

 思い出し、ネフェニーは幸せに頬を緩める。

 そんな彼女の顔を見ながら、カリルは満足げに頷いた。

 

「あんたも女なんだから、これからはちゃんとお手入れして、更に女を磨くんだよ。

 そうすりゃあ、どんな男もあんたを放って置かないって」

「いや・・そんなのは・・その・・・」

「なぁに? そっちも奥手なのかい?

 仕方ないねえ。それならそっちも面倒みようかい」

「い・・いい・・です・・そんな」

 顔の前でぱたぱたと両手を振りながら、ネフェニーは拒否し続けた。

 

「そんなこと言うじゃないよ。せっかく綺麗な顔してんのに、もったいないねえ。

 それとも、もう既にいい人がいるのかい?」

「――っ!?

 そ・・そんなんじゃ・・」

「お? ということは、気になる人はいるってことだね。

 よしよし。それじゃあこのカリルさんが、腕によりをかけて」

「いっいらん! そがぁなんじゃない!!」

 

 顔を真っ赤にしながら、ネフェニーは必死に叫び、しまいには駆け去ってしまった。

 その後姿が見えなくなった頃、カリルは涼しげな声でコロコロと笑った。

 

「放っておける訳ないじゃないのさ。あんたみたいな子」

 

 おせっかいと言われようと、カリルはネフェニーを放って置く気はなかった。

 あんな純粋で可愛い子には、ぜひ良い恋をしてもらいたい。

 親切心と慈愛と、そして少しばかりの興味本位を織り交ぜながら、

 カリルはこれからのことについて、楽しそうに思いを巡らせていった。

 

 

 

 

 

 

あとがき

 カリルさんはぜひ出したい人物だったので、やっと出せて嬉しいです。

 シノネフェ後押し要員として、この人は外せない。

 カリルさんは本当にいい人だし、チャップさんやダラハウさんもいい人すぎるし、

 ネフェニーは支援会話の相手には、本当に恵まれているなあ。

 あとシノンさんがどんどん天然たらしになっていく。

 でも本人の意思はともかく、さりげなくとんでもないこと言ってくれる人だと信じています。

 それにしても、ティアマトさんは出れば出るほど、お母さん化していくなあ・・・。

 

 

 

 

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